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海宝院 (逗子市)と関連項目のwiki

訪れる人も増えそうな。

以下、表題からの転載もしくは抜粋。

 

海宝院 (逗子市)

海宝院(かいほういん)は、神奈川県逗子市にある曹洞宗の寺院。

歴史

1590年(天正18年)、徳川家康の家臣長谷川長綱の開基である。長綱は卓越した行政官であり、徳川氏の新領地となった三浦半島を統治するため、当地に代官として赴任した。そして後北条氏に代わり新領主となった徳川家の威光を知らしめるべく、之源臨乎を招いて寺を創建した。これが当寺の起源である[1]。

元々は、現在の横須賀市の良長院がある場所に位置していたが、之源臨乎は駿河国の出身で富士山に対する愛着があったことから、三浦丘陵の西側の現在地に移転した[1]。その後、旧所在地に建てられたのが良長院である。この寺も曹洞宗である。

文化財
銅鐘(神奈川県指定重要文化財 昭和44年12月2日指定
四脚門(逗子市指定文化財 昭和48年1月26日指定)
木造十一面観音菩薩坐像(逗子市指定文化財 昭和49年12月18日指定)

交通アクセス編集東逗子駅より徒歩10分。

 

 

長谷川 長綱(はせがわ ながつな、天文12年(1543年) - 慶長9年4月12日(1604年5月10日))は、江戸時代初期の代官頭。今川義元に仕えた長谷川長久の子。兄に向井正勝、長谷川長盛、弟に長谷川長次ら。通称は七左衛門。

今川氏没落後に徳川家康に仕えた父と共に、代官として活躍した。天正12年(1590年)、北条氏滅亡後に関東に入府した家康に従い、検地などを行った。江戸幕府成立後、大久保長安伊奈忠次彦坂元正らと関東代官頭に任ぜられ、相模国浦賀(現神奈川県横須賀市)に陣屋を置き、主に三浦半島の幕府領を管轄した。なお、この陣屋跡は陣屋山と呼ばれ、現在愛宕山公園(別名浦賀園)となっている。

また、特筆するべきは海運に長じていて、元武田家の水軍で、後に家康に仕えて御召船奉行となった向井正綱と長く姻戚関係にあったこともあり、共に江戸湾三浦半島の発展に大きく貢献した

慶長9年(1604年)4月12日に62歳で没したと伝わる。墓所は神奈川県逗子市の海宝院。家は嗣子なく断絶したが、兄弟である長盛、長次の家系は旗本として続いた[2]。弟・三郎兵衛長通は長次同様関東で代官職を務めた後、長盛が代官職をしていた駿河に戻り、代々庄屋を務めた[3]。

 

 

向井 正綱(むかい まさつな、弘治2年(1556年)[1] - 寛永元年3月26日(1624年5月2日)[2])は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。向井正重の子。子に向井忠勝、向井正通ら。諱は政綱とも。通称は兵庫助。なお「向井」と名乗ったのは正綱からで、それ以前は「向」であった。


長谷川氏との関係

大和国の国人出身で、駿河国に拠った長谷川氏と深い繋がりがある。姉婿で、父・正重の養子となった義兄・向井政勝(正行とも)は長谷川長久の子で、正綱の正室も同じく長久の娘である。さらに同じく長久の子である長谷川長綱は正綱と共に徳川家康に仕え、海運に長じて関東代官頭にまで栄達した。互いに三浦半島を与えられてそれぞれ江戸湾の警護と海運を担当。さらには正綱の嫡子忠勝の正室には長綱の娘が入るなど、深い関係を築き、それぞれよく補佐したと伝わる。

なお、フィクション色の強いさいとう・たかをの漫画『鬼平犯科帳』では、長谷川平蔵が大規模に船を必要とした際に向井家に助力を頼むシーンもある。

 

 

藤原秀郷系 長谷川氏

中臣鎌足の流れを汲む藤原秀郷を祖とした一族で、尾藤氏流と下河辺氏流の2つがある。近藤安太郎『系図研究の基礎知識』によると、藤原秀郷流の主要五氏(他は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏)の一つとある。


下河辺氏流

駿河国山西地域の有力者であった小川(現在の焼津市)の法永の末裔。法永は居士名で俗名は長谷川正宣とされ、小鹿範満に追われた今川龍王丸(氏親)を匿ったことで知られるが、軍記物による記述が中心でその他の資料に乏しい[1]。法永が開基した林叟院の寺伝によると、法永は坂本(現在の焼津市)の地頭・加納義久の次男として生まれ、長谷川家の嫁婿となったとされる。

寛政重修諸家譜』などによると、下河辺氏(小山氏の一族)の祖たる下河辺政義の子・小川政平の末裔である。政平の子孫・正宣が大和国長谷川に住んだため、長谷川氏を名乗ったという。一方、正宣の父とみられる長重にまで連なる清和源氏の系譜も『駿河記』巻之十六に掲載されている。そちらの系譜では初代・長宗が大和国長谷川に住み、三代・貞富が土岐光信を責めた功により藤巴紋を給ったとされる[2]。

正宣の孫・長谷川正長の時、君主今川義元桶狭間の戦いで討死したため没落、再度徳川家康に召抱えられるも三方ヶ原の戦いで討死した。

正長には正成・宣次・正吉の3子があり、正成系は1750石(のち分割相続により減り1450石)で江戸時代を存続した。正成は徳川秀忠の娘の勝姫が松平忠直に嫁ぐ際に付属して福井藩へ派遣され、のち忠直が配流されその子の光長が越後高田に移された後も、続けて江戸の高田藩邸に住む勝姫に仕え、幕府より加増を受けている。宣次系は400石で続いた。この家系からのちに火付盗賊改として著名な長谷川宣以(平蔵)が出ている。正吉系は4070石(一時500石を加増されたが分割相続により減った)で幕末に至った。

 

また、同族とみられる長久は今川義元に仕え、その子長谷川長綱は家康に仕え、関東代官頭の一人となったほか、長綱の兄弟である長盛、長次の家系は代官を務めるなど旗本として続いた[3]。

同族とみられる能長は武田信玄に召し抱えられたとされているが、その子孫の詳細は不明である[4]。