艤装してます

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しばらくかかりそ。サグラダファミリアより遅くなるかも。

雑音、雑音、問うに落ちず、語るに落ちる


それとも神道弾圧、皇統簒奪の国賊、大逆賊らしく、過去の言論弾圧(しかも銃弾付き)の成功事例の幻影を、いまだに追体験しているつもりなんだろうか。

上記だけに限っても、いったいいくつの憲法違反を重ねてんのやら。

鬼か悪魔かショーダミチコか、といった処ですわな。
主権者たる日本国民の雑音心を寄せる気はさらさらないらしい。

大日本帝国憲法下でもあるまいし、ショーダミチコ含め、キリ大皇族に日本国民が忖度する義務も理由も一切ないんでな。あるわけ無かろうに。
嫌なら降嫁ではなく皇籍離脱して、「留学」から5年未満ならその費用を国庫に返納すればいいだけの話。
国家、国民をバカにするのもいい加減にしろってんだ。


かつて,皇居内のゴルフ場であった場所に両陛下の御所建設が計画された際,昭和天皇が愛された自然林を皇后さまが丸坊主にした等の報道がなされ,前後数ヶ月に及ぶ謂われない批判記事の連続により,皇后さまは何ヶ月も声を失われる事態に陥られました。

因みに,新御所の建設場所は,当時の宮内庁長官の報告と進言を陛下がお受け入れになり,最終的に決定されたもので,皇后さまはこのご報告や決定の場に一度も同席しておられず,新御所の予定地についてお聞きになったことも,まして御覧になったこともありませんでした。


ここまで仮病のサボりババぁによる証拠や根拠の提示は一切なし。
アホかバカかと。

上記、自然環境破壊の大伐採御所を、廃位(アレら国賊、大逆賊いう処の退位)に入れ替えてみれば、分かりやすいわな。

直近の廃位クーデターで、どれほど立憲君主制法治国家を捻じ曲げ、どれだけの憲法違反をやらかしたことか。



「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表は出されず」

これは日本国憲法下ではなく、大日本帝国憲法下の明治34年(1901年)、内閣総理大臣を辞する伊藤博文に対しての明治帝のおことば。
ショーダミチコとキンヂョーがどれほど異常でどれだけキチガイかよく分かる。


文中にもある当時の宮内庁長官
藤森昭一 昭和63年6月14日-平成8年1月19日)について、昭和帝のご病状(wiki)とともに


1987年(昭和62年)4月29日
天皇誕生日の祝宴・昼食会中に嘔吐症状で中座する。
その後同年8月以降になると
何度も吐瀉の繰り返しや、体重が減少する等体調不良が顕著に。
検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性がある為、
9月22日
歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。

1987年(昭和62年)11月6日、第3次中曽根内閣総辞職内閣官房副長官(事務)- 藤森昭一

同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えた。
しかし1988年(昭和63年)に入ると、体重はさらに激減。

1988年(昭和63年)4月13日、宮内庁次長 藤森昭一内閣総辞職から 5ヶ月弱)
1988年(昭和63年)6月14日、宮内庁長官 藤森昭一 (次長就任からわずか 2ヶ月、宮内庁次長として史上最短の在任)


同年8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となった。
同年9月8日那須御用邸から皇居に戻る最中、車内に映し出されたのが最後の公の姿となった。

同年9月18日、大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止に。
その翌9月19日の午後10時頃、突然大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行う。その後も吐血・下血を繰り返し、マスコミ陣はこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道され、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。

十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)[注釈 5]のため長く療養していたが1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分崩御(宝算87)。神代を除く歴代の天皇で最も長寿。同日午前7時55分に宮内庁長官藤森昭一内閣官房長官小渕恵三がそれぞれ会見を行い崩御を公表。

1989年(平成元年)1月31日、今上天皇明仁)が、在位中の元号から採り昭和天皇追号した[8]。2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる[9]。

宮内府次長
1 1947年(昭和22年)05月03日 - 1948年(昭和23年)08月02日
2 1948年(昭和23年)08月02日 - 1949年(昭和24年)05月31日

宮内庁次長
1 1949年(昭和24年)06月01日 - 1950年(昭和25年)10月09日
2 1950年(昭和25年)10月09日 - 1953年(昭和28年)12月16日
- 1953年(昭和28年)12月16日 - 1953年(昭和28年)12月18日
3 1953年(昭和28年)12月18日 - 1974年(昭和49年)11月26日
4 1974年(昭和49年)11月26日 - 1978年(昭和53年)05月26日
5 1978年(昭和53年)05月26日 - 1988年(昭和63年)04月13日

6 1988年(昭和63年)04月13日 - 1988年(昭和63年)06月14日 ←藤森昭一    

宮内庁長官には次長からが慣例なんだそうな。

ショーダミチコとアキヒトの
ショーダミチコとアキヒトによる
ショーダミチコとアキヒトのための2ヶ月次長

もう一度、再掲してみよう。


因みに,新御所の建設場所は,当時の宮内庁長官の報告と進言を陛下がお受け入れになり,最終的に決定されたもので,皇后さまはこのご報告や決定の場に一度も同席しておられず,新御所の予定地についてお聞きになったことも,まして御覧になったこともありませんでした。


一部で繰り返し語られていることだが、昭和帝に長年お仕えした長官、次長、侍従長がご闘病からご回復まで、それがかなわぬなら大喪までお側にあるのが当然ではないのか。

宮内庁の人事権は内閣人事局設置前には内閣にはなかった。いや設置後の今も果たしてどうなのか。

それでは、昭和帝が病にお倒れになったその時に、それまでの長官、次長、侍従長のクビを飛ばしたのはいったい誰なのか?

未だに(一部ではなく)あちこちで「暗殺」説がささやかれるのも無理からぬことなのだろう。
あ~はいはい、雑音ね、雑音。心ない雑音と。

俺は確かめたわけじゃないが、
昭和62年の天皇誕生日、隣に座っていたのはショーダミチコだったとかなんとか。


以下、全文をコピペ。


眞子内親王殿下に関する最近の週刊誌報道について

平成30年5月25日
宮内庁

眞子内親王殿下の納采の儀を始めとするご結婚関係儀式等の延期が発表されて以来,このことに関する両陛下,取り分け皇后さまのお考え,ご対応について様々な憶測がなされ,記事にされてきましたが,このことに関し,両陛下は当初より一貫して変わらぬ対応をしてこられました。

両陛下が第一に考えられたことは,これは眞子さまの内心に触れる事柄であり,何人といえども,恐らくはご両親殿下でさえ眞子さまのお考えを待つ以外おありでないということでした。そうした中,ご自分方として出来ることは,極力周囲の雑音から眞子さまを守り,静かな状況を保つ中で,眞子さまがご自分の考えを深められるよう助力なさるということでした。

そのため,これまで両陛下は共に首尾一貫このことに関し一切発言を慎まれてこられました。事実,宮内庁長官,次長を始めとする宮内庁幹部,側近である侍従長女官長侍従職の誰一人として,このことに関して両陛下のご感想を伺ったり,状況についてお尋ねを受けたことはありません。平素,両陛下のご相談に
与る参与,御用掛においても全く同様であります。

一部の週刊誌は,「侍従職関係者」,「宮内庁幹部」,「宮内庁関係者」等のコメントとして,皇后さまが様々な発言をなさっているかのように記していますが,先にも述べたとおり,両陛下は,当初より,細心の注意を払って固く沈黙を守り続けておられ,また,宮内庁職員はもとより,ご親族,ご友人,ご進講者等で,両陛下にこの問題について話題にするような人もこれまで皆無であったと伺っています。

かつて,皇居内のゴルフ場であった場所に両陛下の御所建設が計画された際,昭和天皇が愛された自然林を皇后さまが丸坊主にした等の報道がなされ,前後数ヶ月に及ぶ謂われない批判記事の連続により,皇后さまは何ヶ月も声を失われる事態に陥られました。因みに,新御所の建設場所は,当時の宮内庁長官の報告と進言を陛下がお受け入れになり,最終的に決定されたもので,皇后さまはこのご報告や決定の場に一度も同席しておられず,新御所の予定地についてお聞きになったことも,まして御覧になったこともありませんでした。

今また,皇后さまは,ご自分の名のもとに,両陛下としてあれ程までにお守りになろうとされた眞子さま秋篠宮両殿下の周辺で,静かな熟考のために保たれるべき環境に思いも寄らない様々な雑音が立てられていることを驚き,悲しんでおられ,陛下もまたそのことに深くお心を痛めておられます。皇后さまは,これまでもご家族のどなたかが苦しい状況におありの時は必ず,それは家族全体の苦しみだからと言われ,心配しつつ見守ってこられました。

この度,早くより,眞子さま秋篠宮両殿下,お相手の方に静かに考える環境を与えることを最重要と判断され,沈黙に徹してこられた両陛下のお考えが無にされたことは余りにも残念であり,宮内庁として,この問題に関するこれまでの両陛下のお考えとご対応をお伝えすることに致します。

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