艤装してます

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しばらくかかりそ。サグラダファミリアより遅くなるかも。

また、罰当たりなキンヂョーの仮病がらみかよと思うわな。

(北鮮やそれ以外の関連かもしれないが)
それにしてもこれほどの”コンテンツ”をどうして政治的なスピンに使わないんだろう。


黄泉の犬

黄泉の犬(よみのいぬ)は、藤原新也の随筆。『週刊プレイボーイ』1995年7月18日号から1996年5月28日号に「世紀末航海録」と題して連載されたものに大幅加筆し、2006年10月30日に文藝春秋社から単行本として刊行された。

概要

宗教や権威に染まることをかたくなに拒み、インドの旅では自身の肉眼が確かに見ることができる目の前の事実や存在のひとつひとつのみを信じ、見ようとした"私"は、1995年の春、あまりに疲弊した富士山をテレビ画面に見てしまう。サティアンに機動隊が押し入った騒動の一段落したころ、一人の信者がサティアン屋上に立ちぼんやりと富士を眺めている光景が目に止まる。ここから私の麻原彰晃に対する思索と追跡が始まる。

私は、麻原の熊本県八代の実家を訪ね、マスコミを一切遠ざけていた麻原の兄との接触を試みる。麻原の粘着的な土着体質から、彼の世間に対する遠離と怨嗟の感情を決定付けたのは、巷間言われるような選挙での惨敗よりもむしろ、郷里で住民票受理を拒否され村八分に会ったことではないかと推測し、うらぶれた九州の辺境をさまよう。私は八代の駅を降り立ったとたんに楼閣のような王子製紙の工場に出くわす。それはさながら後年麻原がしばしば口にする持って生まれたカルマからの解脱の象徴に思える。麻原が敬愛し「オウム神仙の会」を立ち上げた際には、教祖になってほしいとまで言わせた長兄の経営する松本鍼灸院を客を装い訪ねたもののもぬけの殻であった。全盲の長兄は全盛期には1日に300人の患者を診たといわれるほどの手かざし治療の秘儀を持つ人物であり、私の目的はそれを受け継いだ麻原がイニシエーションを施した相手から受ける負のエネルギーをどう浄化しているのかと、目の疾患(身体障害)がオウムの本質にどのような影響を及ぼしたかを長兄に会うことで知ることであった。

長兄に会うことが叶わなかった私は、釣りをしようと不知火海へおもむくが、ここで偶然に新たな疑問を持つことになる。麻原の目の障害は、チッソ水俣病が原因ではないかということである。また、この国から受けたとも言うべき宿命的な身体障害が世間へ対する憎悪となり、事件へ結びついたのではないかという仮説を立てる。この考えにとりつかれた私は東京に戻り、多くの資料を読み漁り、水俣病に長くたずさわった弁護士後藤孝典の著書を目にし、編集者の仲立ちで後藤に会い、意見を聞く。後藤は、麻原の目の疾患が国家や天皇への憎悪に結びつくことはありえないと一蹴し、不快感を示す。また、後に後藤からはこれ以上、麻原と水俣病の関係について書くことは許さないとの抗議を受ける。

後に奇遇なことから、私は大阪に潜んでいた麻原の長兄に会う機会を持つ。私は、長兄のアパートに一泊し、ついに麻原が幼少期に不知火海で水銀に汚染されたと思われる魚介類を多く食べていたことや、水俣病患者として役所に申請したが、却下された事実を聞き出す。八代では水俣病の申請を出すと「アカ」との風評が広がり、それ以上は戦わなかったこと、また、早川紀代秀が教団に入ってきてから麻原の態度が急激に変わったことなどを聞き出す。最後に、自分の目の黒いうちは話すな、と釘を打たれる。

藤原は、この著書の中で誇大妄想はすべて現実の重さを直視し消化できない場合の自己保存のための現実逃避であると言い切る。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B3%89%E3%81%AE%E7%8A%AC


元号がかわったら、普通は恩赦を求めるもんじゃねーの?
wikiから元号をまたいだ死刑囚を手っ取り早く転載(間違い多々あるかも)。
いったい誰のための情報操作、報道管制なのやら。
まさか、国賊、大逆賊のための大量殺人、大量殺戮じゃねーだろな。

1970年死刑確定囚

マルヨ無線事件 (O)    
1970年11月12日 (判決確定日)    
1966年12月5日(事件発生日)    
強盗放火殺人で有罪になったが、放火と殺人については「強盗したが、ストーブを倒していない」と冤罪を主張。死刑確定後収監年数43年は帝銀事件の平沢を上回る世界記録。福岡拘置所収監中。


1972年死刑確定囚

名張毒ぶどう酒事件(奥西勝)    
1972年6月15日(判決確定日)     
1961年3月28日(事件発生日)    
2015年10月4日病死。89歳。死刑確定後9度にわたる再審請求もすべて棄却。実妹が第10次再審請求。


1977年死刑確定囚

波崎事件 (T)    
1976年4月1日(判決確定日)     
1963年8月26日(事件発生日)    
二度にわたり再審請求するも棄却。三度目の再審請求準備中の2003年9月3日、慢性腎不全により病死。86歳。晩年は寝たきりの生活であった。


1977年死刑確定囚

ピアノ騒音殺人事件 (O)    
1977年4月16日(判決確定日)     
1974年8月28日(事件発生日)    
死刑執行を望み前年10月に自ら控訴を取り下げ確定も、40年以上経過した現在も執行されず生存中[80]。東京拘置所収監中。


1979年死刑確定囚

熊本義兄一家殺傷事件 (K)    
1979年7月10日(判決確定日)     
1970年7月4日(事件発生日)    
無期懲役の仮釈放中に事件を起こす。1989年11月10日執行。


1980年死刑確定囚

福島連続保険金殺人事件 (K)    
1980年4月25日(判決確定日)     
1970年7月28日、1971年5月20日(事件発生日)    
1993年3月26日執行、55歳。

袴田事件袴田巌)    
1980年11月28日(判決確定日)     
1966年6月30日(事件発生日)    
放火殺人事件。公判中から冤罪が指摘されていた。2011年には「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネス認定(当時42年間、その後46年間)。2014年に第二次再審請求の際のDNA鑑定により有罪の証拠とされた犯行時に着用したとされる衣服から加害者と被害者双方のDNAが検出されなかったことから、静岡地裁が再審開始を決定。これにより死刑の執行が停止され、同年3月27日、48年ぶりに釈放された。釈放後袴田は拘禁反応や糖尿病のため東京都内の病院に入院したが、その後病状は回復しつつあると診断され、同年5月27日、故郷の浜松市に帰り、市内の病院に転院した。


1981年死刑確定囚

釧路薬局一家殺人事件 (K)    
1981年3月19日(判決確定日)     
1974年8月7日(事件発生日)    
一家3人を殺害し金銭を強奪。1993年11月26日執行、61歳。

長崎雨宿り殺人事件 (O)    
1981年6月16日(判決確定日)     
1977年9月24日    
殺人の前科有り。1999年12月17日執行、62歳。

愛媛・松前連続保険金殺人事件 (T)    
1981年6月26日(判決確定日)     
1971年、1972年(事件発生日)    
保険金目的で実母を殺害し、口封じの為妻も殺害。別々に審議され死刑と無期懲役が確定。共犯2人も有罪確定。1993年3月26日執行、62歳。


1982年死刑確定囚

世田谷家女性強盗殺人事件 (S)    
1982年9月1日 (判決確定日)    
1977年12月3日(事件発生日)    
不動産売主を殺害し、二審で確定。共犯は懲役13年。1993年11月26日執行、47歳。


1983年死刑確定囚

徳島連続老人殺人事件 (F)    
1983年4月14日(判決確定日)     
1978年(事件発生日)    
控訴せず確定。知的障害者で自分が死刑になる事を理解できなかったとの指摘もある。1995年5月26日執行、40歳。


1984年死刑確定囚


大阪電解事件 (D)    
1984年4月27日(判決確定日) 
1974年(事件発生日)    
勤務先の上司2人を殺害・1993年11月26日執行、70歳。

大阪電解事件 (S)    
1984年4月27日(判決確定日)     
1974年(事件発生日)    
上記共犯・1993年11月26日執行、56歳。

近畿連続強盗殺人事件 (K)    
1984年9月13日(判決確定日)     
1975年-1977年(事件発生日)    
7府県で強盗をし3人を殺害、1993年3月26日執行、48歳。執行時統合失調症であった可能性がある。


1985年死刑確定囚

群馬3女性殺人事件 (A)    
1985年4月26日(判決確定日)     
1977年4月16日(事件発生日)    
1994年12月1日執行、44歳。国家賠償訴訟中だった。

青森旅館連続女性殺人事件 (S)    
1985年7月1日(判決確定日)     
1984年9月9日(事件発生日)    
1958年に強盗殺人で無期懲役となった前科がある。控訴取下げで確定。1994年12月1日執行、65歳。

1987年死刑確定囚

裕士ちゃん誘拐殺人事件 (S)    
1987年1月19日(判決確定日)     
1986年5月9日(事件発生日)    
控訴取下げで確定。1995年5月26日執行、53歳。

連続企業爆破事件(大道寺将司)    
1987年3月24日(判決確定日)     
1974年8月30日-1975年5月4日(事件発生日)    
共犯の一部が超法規的措置で出国。2017年5月24日、多発性骨髄腫のため病死、68歳。

連続企業爆破事件(益永利明)    
1987年3月24日(判決確定日)     
1974年8月30日-1975年5月4日(事件発生日)    
同上。東京拘置所収監中。旧姓片岡。

名古屋保険金殺人事件 (I)    
1987年3月31日(判決確定日)     
1979年11月19日-1983年12月25日(事件発生日)    
二審で確定・1998年11月19日執行、56歳。共犯のHは1993年確定。

名古屋市女子大生誘拐殺人事件(木村修治)    
1987年7月9日(判決確定日)     
1980年12月2日(事件発生日)    
木村は愛知県名古屋市被差別部落出身(参考・白山中学校事件)。最高裁上告後「水平社宣言」や死刑廃止運動を知り、1986年2月には死刑廃止運動を行う死刑囚による「日本死刑囚会議・麦の会」に入会、同年、同会運営委員となる。上告審では死刑違憲論を主張するも棄却。大道寺将司・益永利明・坂口弘らとともに統一獄中者組合員として獄中活動。1993年9月に恩赦出願。1995年1月、手記『本当の自分を生きたい 死刑囚・木村修治の手記』(インパクト出版会)を出版。恩赦出願の結果は通知されないまま1995年12月21日死刑執行、45歳。また日本死刑囚会議・麦の会『死刑囚からあなたへ 国には殺されたくない』(インパクト出版会)に手記「強く、優しく生き抜いてください」を寄稿(死刑執行後の1997年3月刊行)。 

秋山兄弟事件 (A)    
1987年7月17日(判決確定日)     
1975年8月25日(事件発生日)    
秋山兄弟(双生児)の弟。兄が経営していた紙工場の元従業員。2006年12月25日執行、77歳。この年齢での執行は日本国憲法下では最高齢、確定から19年5ヶ月後の執行は戦後最長。確定判決において兄は従犯とされ無期懲役(求刑は死刑)となったが、主犯は兄であるとして2003年8月に再審請求するも棄却。執行時は二度目の再審請求中だった。

東村山署警察官殺人事件 (T)    
1987年10月23日(判決確定日)     
1976年10月18日(事件発生日)    
1995年5月26日執行、69歳。

熊本連続強盗殺人事件 (H)    
1987年12月18日(判決確定日)     
1979年3月28日、5月15日(事件発生日)    
1995年12月21日執行、63歳。


1988年死刑確定囚

3連続保険金殺人事件 (H)    
1988年3月8日(判決確定日)     
1978年3月24日-1979年5月9日(事件発生日)    
福岡拘置所収監中。

福岡病院長殺人事件 (S)    
1988年4月15日(判決確定日)     
1979年11月4日(事件発生日)    
犠牲者1名・1996年7月11日執行、49歳。

福岡病院長殺人事件 (Y)    
1988年4月15日(判決確定日)     
1979年11月4日(事件発生日)    
同上共犯。1996年7月11日執行、43歳。

日立女子中学生誘拐殺人事件 (W)    
1988年4月28日(判決確定日)     
1978年10月16日(事件発生日)    
経営していた鉄工所の経営難に加え韓国へのキーセン旅行に何度もいったことから1400万円の負債を重ねた男が、資産家であった妻の養父の中学校3年生の娘を金銭目的で誘拐し殺害。2013年6月23日夜、くも膜下出血により病死、74歳[82]。

馬連続女性農夫殺人事件 (S)    
1988年5月20日(判決確定日)     
1981年10月2日、1982年7月3日(事件発生日)    
無期懲役の仮釈放中に事件を起こす。1995年12月21日執行、68歳。

連続4人殺人事件 (W)    
1988年6月2日(判決確定日)     
1967年4月24日-1973年3月20日(事件発生日)    
一審は無期懲役だった。4件の犯行の内、2件は未成年時によるもの。大阪拘置所収監中。

神田ビル放火殺人事件 (I)    
1988年7月1日(判決確定日)     
1981年7月6日(事件発生日)    
1996年7月11日執行、48歳。

夕張保険金殺人事件(H)
1988年10月11日(判決確定日)     
1984年5月5日(事件発生日)    
犯人は夫婦。夫。夫婦から犯行の指示を受けた実行犯は無期懲役今上天皇即位に伴う恩赦を期待して控訴取下げ、確定。恩赦はされず、1997年8月1日執行、54歳。

夕張保険金殺人事件(H)
1988年10月11日(判決確定日)     
1984年5月5日(事件発生日)    
同上。妻。女性死刑囚としては戦後3人目に処刑された。1997年8月1日執行、51歳。

東京港区・銀座連続強盗殺人事件 (H)    
1988年10月17日(判決確定日)     
1978年5月21日、6月10日(事件発生日)    
今上天皇即位に伴う恩赦を期待して上告取下げ、確定。恩赦はされず、1996年12月20日執行、60歳。

昭和石油重役一家殺人事件 (I)
1988年10月24日(判決確定日)     
1983年1月29日(事件発生日)    
今上天皇即位に伴う恩赦を期待して上告取下げ、確定。恩赦はされず、1996年12月20日執行、55歳。


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