艤装してます

しばらくかかりそ。サグラダファミリアより遅くなるかも。

ロシアン・スクール:をわだルート、赤坂東宮御所ルート


かの有名な東郷茂彦氏は、国内、国外でどんな ”報道” してます?

神道弾圧、皇統簒奪のロシアンスクールのバカ夫婦(2世帯)が赤坂東宮御所を退去するらしいが、その後の入居者は決まってるんだっけ。
対日本破壊工作の一大拠点になっているのでは?との話はよく聞く。
今現在の住人と、次の入居者ではどっちがひどいのやら。

東郷和彦氏のwikiによれば、英国ロンドンに赴いてロシア語研修と書かれてんのな。まぁロシア語の研修じゃないんだろうが。)


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小和田恆
ロシアンスクール

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宮内庁東宮職東宮大夫
(宮内庁東宮職の長。「とうぐうだいぶ」)

野村一成    
2006年(平成18年)4月6日 - 2011年(平成23年)7月5日    
ロシアンスクール

小町恭士    
2011年(平成23年)7月5日 - 2016年(平成28年)5月13日    
ロシアンスクール

小田野展丈    
2016年(平成28年)5月13日 -


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東郷 茂彦

(とうごう しげひこ、1945年1月10日 - )は、日本の新聞記者。
 1993年には日本のメディアが報道自粛協定を結んでいたのに、小和田雅子が皇太子妃に決定したことを協定無視で報道した「スクープ記事」で記者として名が知られるようになった。
疎開先の長野県軽井沢町の別荘で双子で生まれ、程なくして帰京。
祖父東郷茂徳(朴茂徳)は太平洋戦争開戦時及び終戦時の外務大臣
父東郷文彦(入婿)は、戦後外務省事務次官、駐米大使を務めた。
双子の弟東郷和彦は、元駐オランダ大使・外務省欧亜局長であった(2002年に辞任退職)。


東郷 和彦

(とうごう かずひこ、1945年(昭和20年)1月10日 - )は、日本の元外交官、京都産業大学法学部教授、ライデン大学人文科学博士。専門は国際関係論。
ロシアンスクール。
外務省に強い影響力を有していた鈴木宗男に太いパイプがあり、北方領土問題では歯舞・色丹の二島先行返還論を唱えていた。
第二次世界大戦終戦時に外務大臣を務めた元外交官の東郷茂徳(朴茂徳)は祖父。
元外交官の東郷文彦(入婿)は父、
ワシントンポスト』元記者の東郷茂彦は双子の兄。


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小和田恆

1955年(昭和30年)、東京大学教養学部卒業、外務省に入省。
1959年(昭和34年)、英国・ケンブリッジ大学大学院博士課程修了
(条約局法規課で6年ほど(1959年~1965年)日韓国交正常化の作業に携わる。)
1960年(昭和35年)(27歳)、在ドイツ日本国大使館一等書記官
(おそらく工作員だらけ(俺))
1962年(昭和37年)(29歳)、東京大学非常勤講師
1965年(昭和40年)(32歳)、在ソ連日本国大使館一等書記官
(領土問題、漁業交渉、サハリン残留韓国人の帰国問題などを担当(wiki))
1968年(昭和43年)(35歳)、国際連合日本政府代表部一等書記官
1971年(昭和46年)(38歳)、外務省欧亜大洋州課長、外務大臣秘書官事務取扱、西欧二課課長
1972年(昭和47年)(39歳)、国際連合局政治課長
1974年(昭和49年)(41歳)、条約局条約課長
1976年(昭和51年)(43歳)、福田赳夫内閣総理大臣秘書官(他に福田康夫、保田博、棚橋祐治ら(wiki))
1979年(昭和54年)(46歳)、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、ハーバード大学法学部客員教授
1981年(昭和56年)(48歳)、在ソ連日本国大使館公使
1983年(昭和58年)(51歳)、在ソ連特命全権公使

1984年(昭和59年)(52歳)、条約局長
1987年(昭和62年)(55歳)、外務大臣官房長、ハーバード大学法学部客員教授
1989年(昭和64年)(57歳)、OECD日本政府代表部特命全権大使外務審議官
1991年(平成3年)(59歳)、外務省事務次官
1993年(平成5年)(61歳)、外務省顧問、外務省を退官
1994年(平成6年)(62歳)、国際連合日本政府常駐代表部特命全権大使ニューヨーク大学法学部客員教授コロンビア大学法学部非常勤教授


野村一成

入省後は「ロシアン・スクール」に進みモスクワ、デンマークなどヨーロッパ諸国の大使館における書記官および参事官、欧亜局勤務を歴任する。1960年代後半にはモスクワの日本大使館において小和田恆と同時期に勤務していた

1984年(昭和59年)ソ連課長。
1967年(昭和42年)三木外相訪ソによる第1回日ソ外相定期協議から計5回の日ソ協議に事務当局として参加。
1986年(昭和61年)の安倍・シェワルナゼ会談では会談のシナリオを書いた。同年外務参事官、
1993年(平成5年))欧亜局長、同年10月、エリツィン・ロシア大統領来日、東京宣言取りまとめ。
2002年(平成14年)に駐ロシア連邦大使に任命された。
2006年(平成18年)4月4日、ロシア連邦大使を退任し、同月6日宮内庁東宮職東宮大夫に就任した。
2011年(平成23年)7月5日、約5年3か月の間務めた東宮大夫を退任。宮内庁御用掛に就任。任期は、2011年12月末まで。後任の東宮大夫は前タイ大使の小町恭士。


小町恭士

1969年(昭和44年)京都大学法学部卒、外務省入省。
1970年(昭和45年)7月 ロシア語研修(1973年7月まで)
1981年(昭和56年) 8月 駐米大使館一等書記官
1984年(昭和59年) 6月 駐ソビエト連邦大使館参事官
1987年(昭和62年) 1月 経済協力局無償資金協力課長
1989年(平成元年) 1月 情報調査局企画課長
1989年(平成元年) 6月 大臣官房、外務大臣秘書官事務取扱
1991年(平成3年) 12月 欧亜局ソヴィエト課長
1992年(平成4年) 1月 欧亜局ロシア課長

1993年(平成5年) 8月 駐米公使
1994年(平成6年) 6月 駐英公使兼ロンドン総領事
1996年(平成8年) 6月 在ロシア日本国大使館公使
1998年(平成10年) 4月 国際協力事業団総務部長
2001年(平成13年) 4月 外務事務官、大臣官房
2001年(平成13年) 5月 欧州局長
2001年(平成13年) 8月 大臣官房長
2002年(平成14年) 3月 大臣官房
2002年(平成14年) 9月 内閣府国際平和協力本部事務局長
2004年(平成16年) 11月 駐オランダ大使
2007年(平成19年) 9月 特命全権大使地球環境問題担当
2009年(平成20年) 9月 駐タイ王国特命全権大使[2]
2010年(平成22年) 10月 退官
2010年(平成22年) 11月 エーザイ株式会社顧問
2011年(平成23年)7月5日 東宮大夫
2016年(平成28年)5月13日 依願免本官

小田野展丈

1970年(昭和45年) - 慶應義塾大学経済学部卒業。
1970年(昭和45年) - 外務省入省。
2001年(平成13年) - 外務省中東アフリカ局アフリカ審議官。
2002年(平成14年) - 外務省儀典長
2004年(平成16年) - ミャンマー駐箚特命全権大使
2008年(平成20年) - 欧州連合政府代表部特命全権大使
2011年(平成23年) - 特命全権大使(査察担当)。
2012年(平成24年) - 外務省退職。
2012年(平成24年) - 宮内庁式部官長[9]。
2014年(平成26年) - 宮内庁御用掛。
2015年(平成27年)11月 - 近鉄グループホールディングス株式会社顧問[10]。
2016年(平成28年)1月 - 大塚製薬株式会社業務管理部顧問[11]。
2016年(平成28年)5月 - 東宮大夫

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東郷 茂彦

父、文彦が外交官だった為、学習院初等科在学中、オランダに1年間、スイスに2年間在住、語学堪能なのは、この頃、身に付けたもの。帰国後、学習院中等科東京都立日比谷高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部卒業。

1969年に朝日新聞社に入社した。朝日新聞名古屋支局で愛知県警詰めキャップも経験し、東京本社に戻って政治部に配属され首相の番記者として期待されていたばかりだったが、1976年5月の昼間、衆議院本館の一階から三階までの階段で国会見学に来ていた神奈川県の小学生たちに後ろから近づきスカートをめくって触るわいせつ事件をおこした。さらに、二週間ほど前にも同じ場所で同じような事件をしたと認めたが父親の詫び状によって起訴はされなかった。事件の翌々日に妻と二人の息子もいたが、朝日新聞依願退職した。同年にワシントン・ポスト紙の記者に転じ活動した。

海外誌であるワシントンポストで記事を日本に逆輸入させてマスコミの報道を変えることで、その後の選挙結果や報道を大きく変動させた。1988年に絵本『ちびくろサンボ』の絶版のきっかけとなる日本での黒人の取り扱いの記事を書いた。
更に1989年の組閣後に鳥越俊太郎が書いた宇野宗佑首相に関する女性問題は当初は国内では問題視されなかったが、東郷がワシントンポストの記事がマスコミに紹介されたことで批判報道一色にして参議院選挙で敗北させた。鳥越と共に不倫など政治家の異性に関することもその後の日本の政界では問題視される風潮の発端をつくった。
よく言われる話だが、「鳥越/東郷以前は問題にされなかった」的な書きぶりだわな。いったいどこのご意向圧力、政治権力の行使だったのやら
 1993年には日本のメディアが報道自粛協定を結んでいたのに、小和田雅子が皇太子妃に決定したことを協定無視で報道した「スクープ記事」で記者として名が知られるようになった[1][2]。

不祥事
2001年11月13日午後4半時ごろ地下鉄千代田線車内で痴漢事件をおこした。東郷は「女子高生が可愛かったのでついやってしまった。」、「実はこれまでにも九回くらい、電車内で痴漢をしたことがある。」と白状した。捜査関係者も「常習者だから起訴された。被害者は全員若い女性だ。」と話している[3][4]。

人物
東郷姓は祖父の代に買い受けたものだが、同じ薩摩出身の海軍元帥・伯爵東郷平八郎と血縁関係はない。
双子の弟の東郷和彦、父の東郷文彦、祖父の東郷茂徳も職業外交官であり、東郷家は戦前から外務省と繋がりが深い。
母方の祖母エディ・ド・ラランド(東郷エヂ)はユダヤ系ドイツ人であった[5]。

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東郷和彦

1945年、第二次世界大戦中、疎開先の長野県軽井沢町で生まれ、程なくして帰京。
1957年、学習院初等科卒業 初等科在学中には外交官だった父文彦(入婿)、母いせ(茂徳長女)、双子の兄茂彦とともにオランダに1年間、スイスに2年間在住していた。語学堪能なのはこのころ身に付けたもの。のちの外交官としての手腕も幼いころのこの体験が大いに関係していると思われる。
1960年、学習院中等科卒業
1964年、東京都立日比谷高等学校卒業
1968年、東京大学教養学部国際関係論卒業。外務省入省。
1969年、ロシア語研修(英国陸軍教育学校及びロンドン大学スラブ東欧学研究所(英語版))
1972年、在ソ連邦日本国大使館三等書記官

1974年、外務省調査部分析課
1976年、同条約局条約課
1979年、OECD日本政府代表部一等書記官
1981年、在ソ連邦日本大使館一等書記官
1984年、外務省経済局国際エネルギー課長
1986年、倉成正外務大臣秘書官
1987年、外務省経済局書記官
1988年、同欧亜ソ連邦課長
1992年、在米国日本大使館総括公使
1994年、在ロシア日本国大使館次席公使
1996年、外務省欧亜局審議官
1997年、同大臣官房総括審議官
1998年、同条約局長
1999年、同欧亜局長
2001年、在オランダ日本国全権大使
2002年、鈴木宗男事件をきっかけに「特定職員の役割を過度に重視し、外務省内のロシア関係の専門家を事実上分断して混乱をもたらした結果、外務公務員の信用を著しく失墜させた」として駐オランダ大使を更迭される。この時依願退職を求められるも拒否したため大使を罷免された。その後、相談相手であった同期入省の鏡武が大使を務めるアイルランドへ逃れた。
2002年、外務省退官、ライデン大学講師

人物
先祖は豊臣秀吉朝鮮出兵の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工で、姓を朴(パク、ぼく)としていた。陶工達が集められた「苗代川」(現在の日置市東市来町美山)と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。曽祖父の朴寿勝は優れた陶工で、横浜や神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。
東郷姓は祖父の代に買い受けたものだが、同じ薩摩出身の海軍元帥・伯爵東郷平八郎と血縁関係はない。
父の東郷文彦、祖父の東郷茂徳も職業外交官であり、自身を含めて親子三代で日本の外交官を務めた。
ジャーナリストの東郷茂彦は双子の兄。
外務省ではロシア語研修閥である「ロシア・スクール」に属しており、竹内行夫ら「アメリカ・スクール」との確執も取り沙汰されていた。
東郷や丹波實といった外務省のロシア・スクールが、鈴木宗男事件をきっかけに一掃されたことで、2006年8月の第31吉進丸事件への対応をめぐって外務省の人材不足が指摘された。
外務省に強い影響力を有していた鈴木宗男に太いパイプがあり、北方領土問題では歯舞・色丹の二島先行返還論を唱えていた。このため田中眞紀子外務大臣の意向で駐オランダ特命全権大使への着任を一時保留された。
母東郷いせの母エディ・ド・ラランド(東郷エヂ)はユダヤ系ドイツ人であった[1]。