何を意味するのかさっぱり分からんが、
仮にその比較対象を、
長野・奥志賀、支那人乗っ取りホテルで血税豪遊を繰り返す、仮病やサボリ、モラル破壊の代名詞にして、ノブレス・オブリージュの対局に位置する
”ヲワダマサコ”、
あるいは”ヲワダマサコに対しての「国民理解」の度合い”
として設定するならば、
「国民理解」なるものが意味・定義不明であることを差し引いても、
およそ”ハードル”や”壁”に相当するものが存在するとは考えられず、
(求められるものがヲワダマサコと同じ程度の「国民理解」である限りにおいては)
ほとんどフリーパス(注)と同義ではないのか、と。
(注:辞書には「無試験合格や税関の無条件通過ができること」とありますな。本当にヲワダマサコそのものだ。)
要は(立后を許さない場合に限定した場合)、
ヲワダマサコに対しての「国民理解」の度合いと、
旧宮家の皇籍復帰への「国民理解」の度合いは、
それぞれ同じ程度であるべきではないのか、と。
”ヲワダマサコ”もしくは”ヲワダマサコに対する「国民理解」」の度合い”が、
ノブレス・オブリージュの対局に居続ける、居座り続けるのであれば、
旧宮家に対する「国民理解」もそれと同じ程度でさして問題はない、
ということになるのかもしれない。
それとは逆に、旧宮家に対しての「国民理解」について、昭和帝・良子皇后時代の皇室と同様、ノブレス・オブリージュを厳に求めるのであれば、
ヲワダマサコに対しても昭和期と同様、公務や宮中祭祀において、その言動や所作、立居振る舞いについて、(立后を許さない場合であっても)極めて厳格に要求すべきということになる。
私利私欲にまみれた平成のキンヂョー家、公私混同と私物化の平成のキンヂョー家にあっては、失われて既に久しいものではあるのだが。
少なくとも平成のキンヂョー家にありがちな、恣意的なダブスタ、
すなわち、ヲワダマサコに対してはノブレス・オブリージュを一切求めない(≒仮病、サボリ、不正行為その他を許容する)にも関わらず、
旧宮家の皇籍復帰に対しては、極めて厳格なノブレス・オブリージュを要求するような、
「国民理解」なる意味不明の文言を恣意的かつ自らに都合よく使い分けるダブスタは、国民感情からも、国家国民にとっての国益の観点からも決して許されるものではあるまい。「国民理解」における非対称性とでもいえば、当たらずとも‥だろうか。
ここまでは、立后を許さない場合に限定してヲワダマサコと旧宮家の皇籍復帰について比較してきたが、立后を許容するのであれば当然に話は大きく異なってくる。
ヲワダマサコに対する「国民理解」なるものについては、旧宮家の皇籍復帰に対する「国民理解」なるものよりも、その要求水準がはるかに重くかつ厳格になることは間違いなかろう。
(長々と書いちまったい。手短に書くつもりだったのに。)