艤装してます

しばらくかかりそ。サグラダファミリアより遅くなるかも。

平成のキンヂョー家に”敬意”を持つ日本国民の割合は?

サザエさんのタマに”親しみ”を持つ国民の割合。
ソフトバンクの(あの憎ったらしい)戌に”親しみ”を持つ国民の割合。
ワイモバイルとかいうヤツも何か出してたか。

日本国憲法下のいわゆる”象徴”なる意味不明のものにおいて、
第一義的に求められるのは、その辺の戌・猫のような”親しみ”ではない、という認識なんだけどね。

(どのみち鉛筆なめなめ、ショーダミチコの脳内妄想を活字にしただけなんだろうが。ショーダの血統のいのみ憐れみの令なんて以ての外。罰当たりもいいところだ。それもアマテラス・神武以来の系譜を廃絶に追い込んでまで)


表題の件、「平成のキンヂョー家に敬意を持つ日本国民の割合」について、
数十年スパンのちゃんとしたマトモな世論調査があるなら、具体的な数字を見てみたいもんだわな。
当然ながら、ショーダミチコ批判が言論弾圧されることのない、表現の自由が護持された自由な言論空間の中において、ということになるのだが。

靖国ヘは行かず、鮮人テーマパークに成り果てた高麗神社ヘ嬉々として血税豪遊するような平成のキンヂョー家に、韓流もどきの”親しみ”もへったくれもあったもんじゃない。
神道弾圧、皇統簒奪の国賊、大逆賊なんぞに敬意なんて持ったら、それこそ罰が当たるがな。

仮に、
ショーダミチコ批判が言論弾圧されることのない、表現の自由が護持された自由な言論空間の中であったとしても、
民主主義における多数決なるものが、失敗の蓋然性をかなりの程度許容し、加えてそうした失敗からのリカバリーを前提として組み立てられているとしたら、
失敗の許されぬこと、二度と取り返しのつかぬことは、多数決による意思決定から切り離すべきだと俺は思うけどね。

同時に、失敗しても作り直せるもの、リカバリーのきくものならともかく、
そうでない”存在”に対しては、今現在の日本人が背負うことのできる”責任”の範疇、許容範囲を大きく超えているとも思う。日本人の祖先から、将来の日本人に至るまでその失敗の影響たるや計り知れないのだから。


アマテラス・神武以来の系譜を今に伝えるとともに、それら存在への祖霊崇拝の有資格者でもある皇統(いわゆる男系)の護持と対比すべきは、
二者択一においては、皇統廃絶という他ないはず。

その皇統廃絶の下位区分として、
共和制をとるか、それとも
「ショーダの血統のいのみ憐れみの令」をとるか。

すなわち、どこの馬の骨とも知れぬショーダミチコの血統、同じくどこの馬の骨とも知れぬヲワダマサコの血統を、日本人の祖先たちが
拍手(かしわで)の対象としてきた”存在”と”同じ扱いにまで成り上がらせ、将来の日本人にまでその簒奪を押し付け続けるのか、ということだわな。


以下、
2019/4/12(金)の書き込みより抜粋(改行訂正)

ショーダミチコ批判、ヲワダマサコ批判のできぬ輩に世論調査なんてできるわけ
https://blogs.yahoo.co.jp/tu_ray_0g_0s1/49776658.html


ショーダミチコとその背後による情報統制、報道弾圧下において、当該利害に関わる世論調査なるものは、果たして成立しうるものなのか?

仮に、皇統を護持するための女性皇位と、
皇統を簒奪、乗っ取り、根絶やしにするための女性皇位がある/あったとしたら、
日本一有名な知恵遅れは当然に後者な。

法定皇統継承(皇位継承)有資格者、あるいは法定外皇統継承(皇位継承) 有資格者がいる限りにおいては。

極めて悪質なプロパガンダでは、単なる女性天皇と、簒奪、乗っ取り、根絶やし天皇(いわゆる女系天皇)をわざと区別しない、させないようだが。



ついでに、wiki当該項目から抜粋。

魏志倭人伝には、邪馬台国などの倭人(日本人)の風習として「見大人所敬 但搏手以當脆拝」と記され、貴人に対し、跪いての拝礼に代えて手を打っていたとされており、当時人にも拍手を行ったとわかる。古代では神・人を問わず貴いものに拍手をしたのが、人には行われなくなり、神に対するものが残ったことになる。なお古代人は挨拶をする際に拍手を打つことで、手の中に武器を持っていないこと、すなわち敵意のないことを示し、相手への敬意をあらわしたという説もある[要出典]。

持統紀に、即位した新天皇に群臣が拝礼と拍手をした記載があり、初めて天皇を神に見立てる儀礼として即位式に柏手が取り入れられ、定例化したとされる[9]。

奈良時代では、天皇の即位宣命が読み上げられた後、参列した百官が拍手で応えたことが、『内裏儀式』元旦受群臣朝賀式にあるが、跪(ひざまず)いて32回も手を打つという形式であり、現代の立って行う形式とは異なった[10]。また、『日本後紀延暦18年(799年)条の元日朝賀で、渤海使が参列していたため、天皇を四度拝むのを二度に減らし、拍手もしなかったとされ、このことからも日本独自の作法という点が強く、平安時代に入ると、中国風に変更し、拍手も打たなくなった[11]。

古事記』の記述として、一言主雄略天皇の献上品に対し、お礼の手打ち=拍手をしたと記され、神自身も礼作法として拍手を行う描写がされている。