朝鮮半島文化の影響受けた群馬の古代碑、世界記憶遺産に申請=韓国ネット「どんな魂胆が?」「日本のルーツは韓国」
レコードチャイナ 2015年6月18日 11時10分 (2015年6月21日 00時01分 更新)
お隣の仮想敵国からの「来聘使」「聘礼使」なんざ、論外だわな。
文化摩擦、事件
一方で、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる[* 16]、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる[43] 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたり[44]といった乱暴狼藉を働くものもあった。
事件の舞台は大坂の客館で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が通信使一行の都訓導・崔天崇に杖で打ち据えられて、夜中に槍を使って崔天崇を刺殺した。
発端は、朝鮮の下級役人が鏡を紛失したと聞いた崔天崇が「日本人は盗みが上手い」と言ったのを鈴木伝蔵が聞きとがめ、かねてよりの朝鮮人の窃盗行為を非難したことによる。
儒学者菅茶山は「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し[46]。」と、朝鮮人が伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。宗家の宗義蕃は、朝鮮人が打擲をしたのは日朝の風習の違いによるものとしつつ、通信使の随員が通詞を打擲した点を批判した[47]。
また、通信使を見物する際には、幕府から作法についてお触が出ていた。
作法のなかには、喧嘩や騒ぎを起こさない、2階や橋の上から見ない、指をさしたり笑ったりしないこと、などがある。
しかし屏風図などの絵画には、無作法な振る舞いで見物している姿も描かれており当時の日本人が朝鮮人を見下してたとされる。
朝貢との関連
幕府の公式文書では、来貢使という用語は使われていないにも関わらず、民間では(略)一方的な従属関係を示す来貢という言葉が広まっていた[49]。
『朝鮮人来聘記』や『朝鮮人来朝記』等においても、三韓征伐や豊臣秀吉の朝鮮出兵を持ち出して朝鮮通信使は朝貢使節と見なしており、当初から日本人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていたことがうかがえる[51]。
こうした朝鮮観から、1811年以後に通信使が途絶したことを朝貢を止めたと受け止める風潮が生じ、幕末の慶応2年(1866年)末に清国広州の新聞に、とある日本人が寄稿した征韓論の記事にも、征韓の名分として挙げられている(詳細は八戸事件を参照)。
遠からず、ショーダミチコとキンヂョーが上記2件がらみで大迷惑な徘徊を始めるものと邪推。
例の日帰りできるはずの埼玉豪遊(初日は件の鮮人乗っ取り神社たる高麗神社と鮮人部落行き)、2日目の日程はショーダミチコ利権の上州富岡製糸場関連そのものだったんだよな。
(埼玉県庁)2017年8月31日11時発表
第2日 9月21日(木曜日)
午前
深谷市大寄公民館(誠之堂・清風亭)
午後
旧渋沢邸「中の家」
富岡製糸場とゆかりの深い偉人たち
関連文化遺産・関連施設
(個人的にはイスラム圏にも入ってもらった方がいいとは思う)
ミンス・ミンチン党籍を残して無所属出馬するみたいな形が、
日本として好ましいかどうかは分からんけど。
ショーダミチコ利権・ヲワダマサコ利権(≒鮮人・支那人利権)には、
言論の自由も、学問の自由も存在しないのは、誰の目にも明らかなんだから。
(日本の地上波で、ショーダミチコ批判、ヲワダマサコ批判ができるなら、反証の1つとして認めてもいいんだけどさ)