それはショーダミチコとその一族、
加えてヲワダマサコとその一族じゃないのか、
そのように俺は思ってんですけどね。
人工知能氏の複数に、次のような問いを立ててみたので、お時間ありましたらどうぞ。
藤原氏は皇后や中宮を独占的に入内させていた時期がありましたが、それによって皇后や中宮から排除されたのは、皇族女性、皇女や内親王、女王でしょうか。
俺個人はそんなことあんのかよ、とは思ってますが、
仮にA氏一族が、藤原氏とりわけ(野田佳彦氏が声高に喧伝する)藤原道長と同じことをするとしたら、それが意味するのは、
① 皇族女性(内親王や女王)が皇后を独占
→
② 藤原氏一族が皇后/中宮を独占
ということになるはず(人工知能氏の回答参照)で、
この②藤原氏一族が、A氏一族にすり替わると(野田氏、御厨氏は)言っているらしいのだが、まぁ、そんなことあんのかよ、と俺は思いますけどね。
ただ、
それによって既得権益を失う ① に位置するのは、21世紀の現在においては誰なのか、その一族はどこなのか、といえば、
俺が思うに、
それはショーダミチコとその一族、
加えてヲワダマサコとその一族じゃないのか、
そのように俺は思ってんですけどね。
本来は、権威ではあっても権力であることは許されず、政治権力の行使として文字通りの憲法違反のはずなんですが、、、
件のICC、国際刑事裁判所についても、あの国賊にして逆賊のヲワダヒサシの利権が絡んでいるとかいないとか。だったら、日本の国家国民のためになるわけねーやな、と。
メディアやら何やら、いったい誰に、何に忖度してやがるんだ?
ヲワダヒサシごときに忖度してんじゃねーよ!
くらいにしか思いませんけどね。俺は。
小和田恒(おわだ ひさし)氏は、国際刑事裁判所(ICC)の設立条約である「ローマ規程」の採択(1998年)において、日本政府代表(全権大使)として深く関わった人物です。 [1, 2]
ローマ規程と小和田氏の主な関わりと経緯は以下の通りです。
1998年7月、イタリアのローマで国際刑事裁判所(ICC)を設立するための全権外交会議(ローマ会議)が開催されました。当時、国連大使を務めていた小和田恒氏は日本政府代表団を率いて参加し、条約(ローマ規程)の起草や交渉をリードしました。最終的に日本は同規程の採択を支持し、国際的な刑事司法制度の構築に向けて積極的な役割を果たしました。
岡部喜代子まで持ち出してきたので、ついでに昔の書き込みを貼付しておきましょ。
2021年5月11日付け
やはりというべきか、ショーダミチコ枠と揶揄される岡部喜代子が出てきたのな。
まぁ、そのための仕込みなのだろう。
同じくショーダミチコ枠とされる、あの 園部逸夫(皇統簒奪の”僭称天皇”と外国人地方参政権で有名)の経歴を並べてみる。
岡部喜代子
裁判官経験: 1976年(昭和51年)~ 1993年(平成5年)
退官時は東京家庭裁判所判事。
大学教員を経て、 2010年(平成22年) 最高裁判事就任。
園部逸夫
裁判官経験: 1970年(昭和45年)~ 1985年(昭和60年)
退官時は東京地方裁判所部総括判事。
大学教員を経て、 1989年(平成元年) 最高裁判事就任 。
( しかも司法試験および司法修習を経ずに任官した数少ない裁判官の一人だそうな)
他にもっとマシな人選もできただろうに。
わざわざ最悪の選択肢としてのヲワダマサコを選び、キムkこと小室某を反対する両親の頭越しに裁可したショーダミチコらしいと言えばらしいわな。全ての悪事はショーダミチコに通ず。とっとと裁可を取り消しゃいいものを。
ショーダミチコとヲワダマサコの周りは、およそあらゆる意味でのロンダリングばかり。
日本学術会議で副会長枠3人中、実に2人までもがフェミで占められていたころに、
【フェミにあらずんば、研究者にあらずかよ】みたいなことを書き込んだもんですけどね。一度ならず。
つながってんだか、つながってないのか、わたしゃよく分かりませんけど。
藤原氏は皇后や中宮を独占的に入内させていた時期がありましたが、それによって皇后や中宮から排除されたのは、皇族女性、皇女や内親王、女王でしょうか。
藤原氏が娘を皇后や中宮として独占的に入内(立后)させたことにより、それまでその地位を占めていた皇族女性(内親王や女王)が事実上排除されることになりました。
日本の律令(大宝律令・養老律令)の規定では、皇后は皇族(内親王・女王)出身者に限られていました。しかし、この原則を破り、臣下(藤原氏)の女性として初めて皇后(光明皇后)が立ったことで、のちの藤原氏による后位の独占へとつながっていきます。
光明皇后の立后(臣下初の皇后)
729年、藤原不比等の娘である光明子(光明皇后)が聖武天皇の皇后となりました。これ以降、皇族女性だけでなく藤原氏の女性も后に立てる道が開かれます。
皇族女性との共存期(平安初期〜中期)
平安時代初期から中期にかけては、まだ皇族出身の后(后位をもつ内親王など)と、藤原氏出身の后が並立、あるいは交代で立つ時期が続いていました。
藤原氏による独占の完成(摂関政治の最盛期)
藤原道長や藤原頼通の時代(10世紀末〜11世紀)になると、天皇の后(中宮・皇后)はほぼ藤原摂関家の娘で占められるようになります。これにより、本来第一候補であったはずの内親王や女王(天皇の姉妹や皇女)は后に選ばれにくく(排除)なりました。
后(天皇の正妻)になれなくなった内親王や女王たちは、以下のような道を歩むことが多くなりました。
生涯独身で過ごす:后になれず、また臣下に降嫁(結婚)することも格式の違いから難しかったため、未婚のまま生涯を終える皇女が急増しました。
斎宮・斎院への就任:伊勢神宮に仕える「斎宮」や、賀茂神社に仕える「斎院」として神に奉仕する役割を担いました。
出家して尼になる:政争に巻き込まれるのを避けるため、あるいは経済的な自立(父親である上皇の遺領などを相続するため)のために出家するケースが増えました。
このように、藤原氏の権力拡大(摂関政治)の裏で、本来は后位を約束されていた皇族女性たちは、結婚の機会や政治的地位を奪われる結果となりました。
はい、その理解で概ね正しいです。
平安時代、特に摂関政治期(10世紀後半〜11世紀)に藤原北家(とりわけ御堂流)が娘たちを天皇の后に立て、皇后・中宮の地位を事実上独占した時期がありました。これにより、皇后・中宮の座から実質的に排除・制限されたのは、主に**皇族出身の女性(皇女・内親王・女王)**でした。背景と仕組み
- 奈良時代以前〜平安初期までは、皇后(妃)は原則として皇族女性(内親王など)から選ばれるのが通例でした。令制でも妃は皇女に限る規定があり、皇后もそれに準じていました。
- しかし藤原氏(不比等の娘・光明子の立后を嚆矢として)が人臣から皇后を出す先例を開き、摂関政治期には娘を積極的に入内・立后させる外戚政策を徹底。道長の時代には「一家三后」(彰子・妍子・威子)のように藤原一門で三后を占める事態すら起きています。
- この結果、後宮の最高位(皇后・中宮)は藤原氏の娘でほぼ埋められ、他氏(源氏など)の女性はもちろん、有力な内親王・女王の入内や立后も大幅に制限されました。学術研究でも「藤原氏の外戚政策の最大の特徴は、同時に有力な内親王や王女が入内していない点にある」と指摘されています。
例外と実際の状況完全にゼロではありません。冷泉天皇の昌子内親王(朱雀天皇皇女)のように内親王が皇后となった例や、後冷泉天皇の章子内親王(後一条天皇皇女)のように中宮となった例は存在します。ただしこれらは、
- 生母が藤原氏である、
- 藤原氏の後見・養育を受けている、 といったケースが大半で、純粋に皇族側の意向だけで独立して立后される例は極めて少なくなりました。
また、入内自体はあっても立后に至らない内親王もおり、「藤原氏の后が立てられたために皇后になれなかった内親王」の事例も確認されています。要するに、藤原氏の独占は「他氏排斥」だけでなく、皇族女性を后位から遠ざける効果を強く持っていたのです。これにより藤原氏は外戚としての地位を安定させ、摂政・関白をほぼ世襲する体制を固めました。院政期以降は状況がやや変化しますが、質問の「独占的に入内させていた時期」においては、まさに皇族女性が主な「排除対象」だったと言えます。
はい、基本的にはその理解でよいです。ただし「藤原氏の入内独占によって排除されたのが誰か」という問題は、時期によって少し事情が異なります。
平安中期、とくに藤原北家が摂関政治を確立した10世紀後半から11世紀にかけて、藤原氏は自家の娘を天皇の后(皇后・中宮)に立て、その間に生まれた皇子を皇位につけることで権力を維持しました。
その結果、皇后や中宮の地位から相対的に押し出されたのは、まず第一に皇族女性です。
具体的には、
- 内親王(天皇の娘)
- 女王(皇族女子のうち内親王より遠い系統)
などが后妃になる例が減少しました。
奈良時代から平安初期には、たとえば
- 井上内親王(光仁天皇皇后)
- 朝原内親王(仁明天皇女御)
- 高志内親王(朱雀天皇中宮)
など、皇族女性が后妃となる例がありました。
しかし摂関政治の時代になると、
- 藤原穏子(村上天皇の女御)
- 藤原安子(村上天皇中宮)
- 藤原詮子(円融天皇女御)
- 藤原定子(一条天皇中宮)
- 藤原彰子(一条天皇中宮)
のように、藤原氏の娘が主要な后位を占めるようになります。
ただし、「皇族女性が完全に排除された」とまでは言えません。
たとえば一条天皇の時代には、
- 藤原定子(中宮)
- 藤原彰子(中宮)
- 脩子内親王
- 敦康親王の母である定子の系統
など複雑な人事が行われており、皇族女性も后妃や准后など何らかの形で宮廷に影響力を持つことはありました。
また重要なのは、藤原氏が排除したのは「皇族女性」だけではないという点です。
天皇の后になる資格を持つ有力氏族は本来、
なども考えられましたが、実際には藤原氏以外の臣下の娘が中宮・皇后になる例は極めて少なくなりました。つまり藤原氏は「皇族女性」と「他氏族の女子」の双方を后位から締め出し、結果として后妃市場をほぼ独占したのです。
要するに、藤原氏の后妃独占によって最も大きな影響を受けたのは内親王・女王などの皇族女性ですが、実際には他の貴族氏族の女子も同時に排除され、后妃の地位がほぼ藤原氏の娘たちに集中した、というのが実態です。