ネットで見る限り、似たようなことを考えてる人が少なくないようで。
1945-1946のなんたらゼロ年はみとらんが、インパールと同じスタッフがつくったんだろうか。
戦中には曲がりなりにも機能していた食料物資の配給網が、占領された後には壊滅状態になった旨の話を聞くことがある。
都市部と地方、その地方も地域によって大きく異なるのは想像に難くないが。
よく言われるのは、都市部への人口流入と、本土絨毯爆撃による鉄道、道路網の寸断、輸送船舶‥。
(焦土と化した都市部への人口流入を一時的に抑制、あるいは食料を供給する側への誘導‥みたいな話はあったんだろうか)
上記に加えて、
米の生産量(ネットより)
昭和16年(1941年) 825万㌧
昭和17年(1942年) 1000万㌧
昭和18年(1943年) 942万㌧
昭和19年(1944年) 878万㌧
昭和20年(1945年) 587万㌧
日本全体で1993年(平成5年)当時1,000万トンの需要に対して、収穫量が800万トンを下回る事態となり、食糧としての流通量が大幅に不足し、東北の米農家が飯用の米を購入するほどであった。北東北では翌年の種もみの確保が困難となる地域もあった。
(種もみの確保といえば、種子法の改悪ってのもやってましたな。)
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ネットで流れてたやつをみたあとの印象
映像はともかく、内容的にはかなり浅い、プロパガンダとしても出来はあまりよろしくない、とするネット上の評に近いかなと。
上記、コメの生産量を知っているだけでも、番組の印象が大きく変わると思う。
(一切ふれてないからね。なんらかの目的の下、意図的な隠蔽を行ったとしか思えない(ミンス、ミンチン風に))
25分頃のジョンダワー氏と、39分頃のマイケルシャラー氏のコメントを入れ替えれば番組のカラクリが分かるんでないかな。意識してのものなのか何なのか。
以降、いくつか、
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>
1945年 戦争花嫁法
1946年 アメリカ軍人婚約者法
1947年 日本人戦争花嫁法
>1947年に日本人戦争花嫁法が制定される。それ以後、国外にいる米国軍人は日本人と結婚して妻子を米国に連れて帰ることが可能になった。
米兵と婚姻した日本人妻のアメリカへの入国は、1947年まで不可だったという理解でいいんですかね。
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そっくりそのままショーダミチコとキンヂョーに対しての礼賛、正当化だと思えば、
まず間違っていないのでは?
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(まぁ、いつものことですけど)
24分頃
(番組のナレ)、
翌年の正月、陸軍の倉庫から軍人が隠していた物資が大量に見つかった
大豆 380俵、木炭 450俵、米、ゴム(語尾不明瞭)
怒った周辺の住民 3000人が押しかけた
12分頃
(記録映像より)
米どのくらいありますか?
米でねぇんです。昆布、昆布に大根‥
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板橋造兵廠物資不正分配事件
板橋造兵廠物資不正分配事件(いたばしぞうへいしょうぶっしふせいぶんぱいじけん)とは、1946年(昭和21年)1月20日から1月23日にかけて、東京都板橋区にあった東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の元労働者が結成した団体が日本共産党の指導の下、同工場に隠匿されていた生活必需品を周辺住民に不正に分配した事件である。
事件の背景[編集]
事件が発生した東京第二陸軍造兵廠板橋製造所は、第二次世界大戦において武器及び弾薬の製造を行っていたが、終戦に伴い、同工場は操業を停止し、閉鎖されることになり、残存した軍需物資の保管及び管理が行われていた。工場の周囲に勤務していた工場労働者や戦争罹災者が群居するようになると、元労働者らが慢性的な物資不足を解決するために、工場に保管されている物資の分配を目的に「退職者生活擁護同盟」(以下、「同盟」)を結成し、物資の分配を工場の管理者に要求するようになった。
事件の発生[編集]
1946年(昭和21年)1月20日、同盟が主催する演説会が滝野川西国民学校で行われ、同盟に所属するAが食糧の人民管理を主張し、工場に付設した倉庫に、生活必需品が職業軍人によって不正に隠匿されていると発表した。その後、同盟の主導する人民討議が行われ、「物資の人民管理」および「周辺住民への分配」が決定された。
翌21日Aは、物資発見の情報を日本共産党党本部に報告し、同党の食糧対策委員Bの指示の下、食糧配給を伝える張り紙を掲示するとともに、周辺住民に喧伝した。その結果、同日午後1時ごろには工場周辺に約800人が集合したため、Aら3人が「人民代表」として工場の管理者である経理部長に面会し、保管物資の引渡しを要求した。しかし合意に至らなかったため、Aら3人は経理部長を拘禁し、約7時間以上に渡って吊し上げを行い、引渡しに関する契約書を調印させた。しかし、契約書の作成に時間がかかったため、当日には物資の分配は行われず、集合した住民には物資の引換券を交付させるにとどまった。また、物資の保管および管理は同盟の下に行われるようになった。
翌22日、引換券を入手した住民から「物資配給」の噂を聞いた都民約2000人が倉庫前に集合した。Aらは倉庫内から大豆約350俵、木炭約400俵、皮屑(かわくず)約140俵を不法に持ち出し、各町から物資の受け取りの代表を選び、一世帯あたり大豆1升5合(約2.1kg)の配給を行った。
翌23日、残存する物資の配給を行う予定であったが、GHQが事態を把握し、即日に中止命令を出したため、物資の分配が中止された。
その後[編集]
工場に残存した軍需物資はGHQの命令の下、東京都の管理下に置かれ、深川倉庫に移送された。
警視庁は25日、本事件の首謀者であるAを検挙したが、Bらが住民約70人を扇動し、Aの即時釈放および物資の返還を主張し、Bら数人が警視総監室に乱入する事態となった。Bは脅迫罪で起訴され、懲役8月・執行猶予2年の言渡しを受けた。
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いんたいぞうぶっしてきはつ【隠退蔵物資摘発】
第2次大戦の敗戦時隠匿された旧軍関係物資の調査,摘発をいう。敗戦直前の1945年8月14日の閣議は軍保有物資の緊急処分を決定,実施し,自動車ガソリン,銅から食糧にいたるまで放出,一部の者が隠匿した。その額は約2400億円にのぼるといわれた(ちなみに1946年度国家予算は約560億円)。そこで摘発が行われ,46年1月22日には,東京の板橋,滝野川両区民が陸軍造兵廠滝野川倉庫の大豆,木炭などを摘発,〈人民配給〉を行った。
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この当時の共産勢力と鮮人、三国人は、未分化、あるいは一体化したものという理解でいいんですかね(その背後も含めて)。
だとしたら、
番組内における極めて特殊かつ極めて異常な ”板橋事件” の扱いと、
それこそ1945年、1946年じゃなかろうに。信じらんねーやな。
(昭和帝、良子皇后に対する報道姿勢と、ショーダミチコに関しての(とりわけ平成以降の)報道弾圧も比較してみればいい。まだ気づいてない人が気づいた時には愕然とするんじゃなかろうか。俺は上記と類似もしくは同様の構造があると思っている。今回のバカ騒ぎで、かなり多くの人が気づいたらしいけど。そりゃ、気づくわな。)