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しばらくかかりそ。サグラダファミリアより遅くなるかも。

「東京大空襲・戦災資料センター」を開館した空襲体験者たちの“執念”

約4000人から1億円もの寄付金が…
東京大空襲・戦災資料センター」を開館した空襲体験者たちの“執念”
東京大空襲から78年 #2

フリート横田 2023/03/10

 今から78年前の昭和20(1945)年3月10日未明、アメリカ軍によって東京の下町に1665トンもの焼夷弾が落とされ、10万人の命が奪われた。これが世にいう、「東京大空襲」だ。

 

 しかし年々、東京大空襲の記憶は風化していっている気がしてならない。そこで今回は、風化を防ぎ、語り継ごうと活動を続けている施設、東京都江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」を訪ねてみた。(全2回の2回目/1回目から続く)

 

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「戦災」という公共性の高いテーマを扱いながら、施設が民営である理由

 

 私が訪れた日は、6歳で東京大空襲を体験した藤間宏夫(85)が、3月10日の夜のことを子供たちに話していた。 

 

 藤間が語っている一室の壁面を見れば、ナチスドイツによるロンドン空襲、そのドイツ・ドレスデンへのアメリカ、イギリスの空襲、そして日本軍による中国・重慶空襲についての資料などが展示されているのが分かる。東京大空襲による日本人の被害だけに限定をせず、「空襲」という戦争の手段のあり方そのものを、人類全体の問題として問おうとする強い意志。

 

 戦災という公共性の高いテーマを扱いながら、この施設が「民営」であるのも、実はこの“意志”のためなのである。 

 

約4000人から1億円の寄付金が集まり、開所にこぎつける

 

 センターのルーツは、空襲体験者であり、空襲を描き続けた作家・早乙女勝元らが1970年に結成した「東京空襲を記録する会」。会はかねてから東京都に対して、空襲祈念施設の建設を要望していた。それを受け、都営の平和祈念館設立計画が立ち上がったのだが、問題が起こる。計画には、現在のセンター同様に、近隣国への加害についても展示内容に盛り込もうとしていた(会としては「東京空襲を中心とする平和博物館」を、というニュアンスだった)。

 

 すると、一部の都議などから批判の声があがったのだった。結局、99年に計画は凍結されてしまう。

 

 それでも会は開設をあきらめず、独自の道を行った。財団法人・政治経済研究所の協力のもと広く寄付を募ると、おおよそ4000人もの人から約1億円の寄付金が集まった。建設地を提供したのも、空襲を経験した有志の人なのだという。2002年には民間施設として開所にこぎつけ、今年で21年目を迎えている。執念といっていい。

 

明確な“意志”を表明しなければ物事は形にならない

 

 一方、都の対応には疑問が残る。批判を受けた後、平和祈念館建設が凍結されたままであること。さらに、祈念館開設のために、300人をこえる戦災当事者たちから空襲体験を聞き取ったというのに、その証言ビデオを死蔵させてしまったこと。祈念館での展示以外の用途では基本的に使えない、ということらしい(死蔵については新聞報道されたこともあり、最近、証言者やその代理人へ都が確認をとりはじめ、100人超については利用許可が出たようだ)。

 

 意見がぶつかるテーマについては、議論を尽くし、最後には誰かが責任を引き受けて、明確な“意志”を表明しなければ物事は形にならない。なのにそういう道は避ける。ばっさり切り捨て、なかったことにしてしまったり、フタをしてしまう。そしてどこからも突っ込みの入れようのない、綺麗な表面だけを見せようとする。このような仕掛けの処置を、近年、ずいぶん見ないだろうか。

 

空襲で家族を亡くし、傷ついた当事者たちには一銭の補償も出ず

 

 センターでは、今のところふたたび公営化の道を模索する考えはないそうだ。私はそのあたりの話を聞いているとき、昔、ハワイ・真珠湾アリゾナ記念館に行った日のことを思い出した。細かな展示内容は、正直、もう覚えていない。しっかり印象に残っているのは、たしかビジターセンターだったかの建物に足を踏み入れたときのこと。エントランスに入るや、グーンと不気味な音が鳴った。真上を見ると、日の丸を付けた飛行機模型が吊ってある。爆撃態勢に入る日本軍爆撃機が今まさに奇襲をかけようとするシーンを、来場者に、“意志”をもって見せつけていた。

 

 展示方法の如何以前に、そもそも東京大空襲を過去の話にするにはまだ早い。戦場で戦った軍人たちには戦後、恩給が出ている。親族にまで出ている。ところが戦場と変わらない空襲の火の海で家族を亡くし、傷付いた当事者たちには一銭の補償もなかった。生き残っても、家族が全滅して孤児になった子も大勢いる。その人々の心からは、今も空襲の炎が消えていない。 

 

東京大空襲は「耐えてしのぶしかなかった」のか

 

 こんなとき、野坂昭如の言葉が思い出される。自身も空襲で一家離散、餓死寸前まで追い詰められた作家は、

 

「この空襲を日本人は天災の如く受け止めた」

 

 と評した(『新編「終戦日記」を読む』中央公論新社)。誰もが避けられない天変地異にあったときのように、空襲を見做す気分を言っている。「みんな耐えてしのぶしかなかった」ものなのだと。慰霊のやり方にもそれは現れていないか。東京大空襲には公営の専用慰霊施設はなく、現在までのところ関東大震災の遭難者のために建設された東京都慰霊堂で、合わせて供養されている状況である。

 

 天災と戦災、それは性格の違う死だ。そこを曖昧なままに空を仰いで、そのまま多くの人は忘れてしまってこなかったか。こうした世間の気分が、現実に空襲で傷付いた人々を救わずに来たのではないか。 

 

東京大空襲・戦災誌』に大空襲を体験したなまの声が収録されている

 

 ならば、もう一度思い出せばいいと思う。今からでも遅くはないはずだ。幸いなことに我々には、体験していない痛みを想像するための、そして大勢の死の検証をするための資料が残されている。前述、早乙女氏らが心血を注いで編纂し、1973~74年にかけて刊行された『東京大空襲・戦災誌』である。全5巻、関連資料などとともに、800編を超える空襲体験記が収録されているシリーズだ。

 

 どれも1000ページほどもあり、小さな活字がびっしり組まれたページは、一見読みにくそうに思えるが、3月10日大空襲の体験談を扱った第1巻などは、息継ぎも忘れて読まされてしまう。思い出したくない過去をあえて語った人々のなまの声が教えるもの。収蔵されている公立図書館は多い。ぜひ手にとって、考えてみていただきたい。本シリーズ、研究者たちによりデジタル化も進んでいるというから、今後より読みやすくなるというのも、私には朗報に思える。

 

 その第1巻からひとつだけ抜粋する。当夜、24歳の主婦だった女性の手記から。タイトルは「敦子よ涼子よ輝一よ」。生後8か月の双子の赤ちゃんと、4歳の男の子と共に空襲から逃げようとした女性は、墨田区東駒形の横川公園へ駆けこんだ。間もなくそこへも容赦なく炎は迫り、隣接する横川国民学校のプールへ大勢の人と飛び込む。水に浸かり、息子を抱き、双子を背にした母に、炎と煙が迫る。

 

最後の力をふりしぼって言った一言

 

  小さな足が私の腰をけっている。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。敦子、涼子。さぞこの母がうらめしかろう。私は一瞬この火の海の中で、輝一もいっしょに親子そろって死んだほうが、どんなに楽だろうかと思った。そのとき輝一が、「おかあちゃん熱いよ、赤ちゃんもっと熱いだろうね、だいじょうぶ」と声をかけてきた。私はぎょっとした。「輝一だいじょうぶ、赤ちゃんおとなしくしているから、僕は男だものもうちょっとがまんしてね」「ウン赤ちゃんだいじょうぶならいいんだ。どこへもやらないでね……」輝一は苦しげに私に訴えている。力もつき果てそうな私に輝一の声は神の声にも聞こえたのです。

 

 自分も火にあぶられているのに、たった4歳で、妹たちを気遣うお兄ちゃん。けれど夜が明け、火が収まると、妹たちはもう、「眠っているときのように2人並んで死んでいる」。輝一君も身体は冷え切り、固くぐったりとしている。母は焼け残った布団をもらい彼をくるんで抱き、救護の人からか、熱いお茶をもらい、口移しに飲ませると、彼は「ううっ」と声を上げた。母は「ああ輝一はだいじょうぶ死にはしない。輝一がんばろう」と一縷の望みをかけて全身を摩擦し続ける。ドラマや映画であれば、ここから彼だけは生還するだろうか。

    でも輝一は最後の力をふりしぼったのでしょう。薄く目をあけ、小さな声で、「おかあちゃん」とただそれだけ言ってもう息をしなくなりました。

 

 これが現実だった。一晩で3人の子供を失った女性。2か月後、5月25日の山の手空襲で、今度は自分の父母も失う。小さな子に芽生えた妹への愛も、母の子を思う愛も、戦争はまるごと簡単に焼き尽くしてしまう事実。そして生涯消えない罪悪感。女性はそれを伝えながら、最終盤、こうしめくくる。

 

 

 戦争はしてはならないもの、今後絶対おきないようあらゆる努力をするのが生きているもののつとめでありましょう。そしてそうしなければあの時代、何の不平も言わず唇をかんで死んだ人があまりにかわいそうです。

 

 何も罪もなく、何の文句も言わず、熱さの中で亡くなった子どもたちに祈ってほしいと言いたくて、女性は筆をとったのではないはないだろう。女性はつとめを課すために重い重い筆を持ち上げてくれたのだ。平和しか知らない我々へ、ひたすら、考え続けるつとめを課すために。

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