東日本大震災から12年となった。犠牲になった方々の 冥福 を祈り、教訓を語り継ぐとともに、住民が大きく減った被災地に人を呼び込み、活力につなげる道を考えたい。
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震災の死者・行方不明者は2万2000人を超える。未曽有の災害から月日が流れ、津波の被害を受けた岩手、宮城両県などの沿岸部では、住宅の再建や道路、交通網などの整備がほぼ完了した。
一方、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって住民らが避難を余儀なくされた福島県では、今も7市町村に、放射線量の高い帰還困難区域が残っている。
このうち駅前などのエリアは、国が「復興拠点」として除染を進め、人が住める場所が広がった。政府はさらに、復興拠点外でも帰還を望む住民の自宅周辺を除染する制度の創設を打ち出し、関連法の改正案を今国会に提出した。
制度がスタートすれば、故郷に戻りたい人は、原則として全員が帰れるようになる。国や自治体は、住民の意向を丁寧に聞き、帰還を後押ししてほしい。
すでに避難先に生活の基盤を築き、帰還を諦めた人は多い。今後は旧住民の帰還を促すだけでなく、新しい住民を増やせるかどうかが地域再建のカギとなろう。
震災前に2万人余りが住んでいた福島県浪江町は、現在の居住人口は約1900人。このうち3分の1は町外からの移住者だ。町が住宅や仕事探しの支援体制を整えたことにより、20~40歳代の移住者も増えたという。
昨年秋、東京都内のIT企業に勤務したまま、リモートワークで神奈川県から移住した34歳の 千頭 数也さんは「被災地に関わりたかった。町の人と一緒に少しずつ前に進めたらうれしい」と話す。
浪江町には今年4月、ロボットや航空機など最先端産業を集積する国家プロジェクトの中核拠点「福島国際研究教育機構」が開設される。地域の声に耳を傾け、実情に合った雇用や産業育成に結びつけることが重要だ。
外から人を呼び込むことは、他の被災地でも活性化につながっている。津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町では、創業を支援する事業を展開したところ、町外からも人が集まり、新たな飲食店などが開業しているという。
被災地で安心して暮らすには、国や自治体が協力し、商業施設や学校、医療機関などを整備することも大切だ。食品や日用品などの移動販売を充実させることなども検討してみてはどうだろう。
ロシアの侵略による戦火を逃れて、イリナ・ホンチャロヴァさん(63)は昨年4月、ウクライナ北部のチェルニヒウから、長男が住む宮城県石巻市に避難し、災害公営住宅で暮らしている。
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「鎮魂の日」を忘れまい
9月からは、震災遺構の門脇小学校で月に2回、命の尊さについて来訪者に話すボランティア活動をしている。
長く小学校の教師をつとめたイリナさんにとって、津波と火災で廃屋と化した門脇小の校舎は、ロシア軍の砲撃で無残に壊された母国の学校と重なる。
大切な命を奪われる悲しさ。
故郷が破壊される哀(かな)しさ。
苦難からの脱却を願い、
立ち上がろうとする意思。
戦禍と災禍の違いはあっても、国境を越え、言葉の違いを越え、時間を超えて、イリナさんと被災地の思いは重なり、響き合う。
門脇小の周囲には墓地が多い。その中を少し歩く。
平成二十三年三月十一日
「あの日」が刻まれた墓碑がある。
12年の時が流れた。
十三回忌である。
死者 1万5900人
行方不明者 2523人
震災関連死 3789人
忘れることはできない、忘れてはならない。
今を生きる者が、東日本大震災のすべての犠牲者に心を寄せる「鎮魂の日」である。被災者と被災地の復興を支え抜く意思を、改めて心に刻みたい。
ロシアのウクライナ侵略は、1年を超えて終わりがみえない。戦火のなかで「平穏な日々を取り戻したい」と願うウクライナの人々がいる。
トルコとシリアの国境付近で2月6日に発生した大地震から1カ月が経過した。両国の死者は5万人を超える。住む家を失い、不安な避難生活のなかで支援を待つトルコ、シリアの被災者がいる。
小さくても、弱くても、支える力になりたい。
東日本大震災で同じ苦難を体験した被災者の思いであり、すべての国民が大震災のときに抱いた思いでもある。
東北の被災地の復興、再生は今も途上にある。それを前に進めながら、ウクライナの人々を、トルコ、シリアの被災者を支えられる国、支えられる人でありたい。
その思いを確かめ、共有する「震災忌」としたい。
津波火災の教訓学ぼう
石巻市は被災市町村の中で最も多くの犠牲者を出した。死者3277人、行方不明者417人、関連死276人。
なかでも、門脇小がある南浜・門脇地区の被害は大きく、地震の約1時間後に襲ってきた大津波とその後に発生した津波火災の延焼で、500人を超える住民が命を落とした。
学校にいた児童と教職員はただちに校庭に集合し、地震発生の15分後には訓練通り、校舎裏手の日和山公園(高さ約56メートル)への避難を完了した。しかし、鉄筋3階建ての校舎にはその後も、近くから避難した住民がいた。
燃え上がる住宅が津波に押し流され、校舎に迫った。児童らが歩いた避難路は水没している。避難住民は校舎と日和山に続く斜面の間を教壇で渡すなどして、津波火災から逃れた。
門脇小に達した津波は高さ1・8メートルで津波だけなら2、3階は無事だったが、火災により校舎のほぼ全体が焼け焦げた。
門脇小は、津波火災の痕跡を残す唯一の震災遺構である。津波を念頭に置いた垂直避難だけでは、命を守り切れない場合もある。平(へい)坦(たん)な津波浸水域では特に重要な教訓である。
門脇小が一般公開されたのは昨年4月からだ。各地の震災遺構の中では遅い指定となった。
「焼け焦げた校舎を見るのはつらい」と、解体を望む住民の声は強かった。大震災の記憶を風化させず、後世に伝えるために「校舎を残したい」という住民の思いも強かった。互いの心情が理解できるから、折り合いを付けるまでに長い時間を要した。
イリナさんの門脇小での活動は長い葛藤を経た被災地の「伝える意思」が「世界と繫(つな)がる力」にもなることを示している。
日本は災害多発国である。被災地の意思を共有し、苦しむ人たちを支え、復興と防災で国際社会に貢献していきたい。
東日本大震災から11日で12年を迎えた。震災関連死を含め、2万人を超える犠牲者に哀悼の意を表し、今なお復興の途上にある被災者を末永く支えたい。
宮城、岩手の津波被災地は街や産業の復興は進むが、心の復興は時を要する。福島の原発被災地は復興が緒についたばかりで、東京電力福島第1原子力発電所の廃炉の行方が左右する。東北の復興は廃炉と両輪で進める必要がある。
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復興は人口減踏まえて
12年は一つの区切りとなり各地で十三回忌の法要が営まれている。改めて生き残った自責の念にさいなまれる方もあろう。痛ましい記憶を封印したい思いと、教訓を風化させないという未来への責任の葛藤もあるかもしれない。時間はかかっても、心の折り合いのつく日が来ることを願う。
避難中に亡くなる震災関連死は昨年3月までの1年に、11年目にしてようやく年間ゼロになった。3789人に上る関連死の9割近くは高齢者だ。避難先でのケアの充実は重要な課題になる。
宮城や岩手は街や産業の復興が一段落し、復興政策を検証する時期だろう。中小企業を支援したグループ補助金は、融資の返済に苦しむ企業が出始めた。地域産業を残そうとするあまり、過大な借り入れを行政も見過ごしていなかったか。改善の余地がある。
福島の原発被災地は復興が本格化し始めた段階だ。帰還困難区域のうち駅の周辺を除染し、公営住宅や店舗、医療機関などの整備が進む。ただ帰還希望の住民は1割ほどだ。移住者を呼び込むなどの工夫が必要だろう。
政府は帰還困難区域にある自宅に帰りたい住民は2020年代に戻れるようにする方針だが、これは丁寧に進めたい。除染するのは自宅と生活に必要な範囲で、希望者が少ない現状では居住地がまばらに点在しかねないためだ。
人口が減る地方ではコンパクトな街づくりが進む。被災地とはいえ、これに逆行する街づくりをしてはせっかく復興してもインフラの維持が厳しくなる。自治体は持続可能な街のあり方を住民としっかり話し合ってほしい。
これは南海トラフ巨大地震や首都直下地震への備えでも参考にすべきだ。震災は人口減少や高齢化といった地域の底流にある長期的な傾向を加速させる。事前に被災状況を想定し、どう復興させるか街の将来像を描いておきたい。そのうえで避難の計画づくりと訓練に万全を期すべきだ。
原発被災地の復興は安全な廃炉作業が前提になる。作業は遅れているが焦りは禁物だ。安全性の確保と地元との合意形成を第一に着実に進めてほしい。
東電は処理水の海洋放出を春か夏に始める。地域にとっては処理水が原発敷地内にたまり続け廃炉作業が妨げられるのは問題だが、風評被害で漁業が立ち行かなくなるのも困る。政府は国内外の消費者の不安が和らぐよう科学的な根拠をわかりやすく示すべきだ。
廃炉の最難関とされる溶け落ちた燃料デブリの取り出しも23年度後半に開始を予定する。今後は廃炉で発生する大量の廃棄物の処分法や、最終的に周辺の土地をどう使うかなども課題になる。どんな状態になれば廃炉が完了したとするかという廃炉の定義を含め、作業計画のよりどころとなる法制度も検討すべきだろう。
政府は住民と対話を
問題はこうした課題について、政府や東電と地元との意思疎通が十分でないことだ。昨年開いた廃炉の国際フォーラムでは住民から「合意形成の場に加えてもらえない」「政府や東電はあまり信用できない」という不満が出た。
政府はエネルギーの安定供給確保と気候対策の両立に原発が必要だとしている。だが原発政策を前に進めるには信頼回復が前提となる。廃炉プロセスに住民との対話を導入し、地元の意向を反映させるべきだ。それが政府や東電への不信感を払拭する一歩になる。
廃炉は30〜40年かかるとされ、原発被災地の復興は長期的な対応が求められる。その点で復興財源の一部が防衛費に転用されるのは気がかりだ。政府は徴収を延長して復興財源の総額に影響は出ないようにするとしているが、22兆円と見積もられる原発事故対応はさらに膨らむこともありうる。
津波被災地などの復興費用は30兆円を超す。南海トラフ巨大地震や首都直下地震の被害は東日本大震災を上回るとの試算もあるが、東日本大震災並みの財政支出ができる保証はない。来たるべき震災の復興費用もあらかじめ議論しておく必要があるだろう。
草木が伸び放題の荒れ地。使う人もなく朽ちる建物。積み上げられた無数の黒い袋のそばをダンプカーが行き交う。福島県大熊町と双葉町にまたがる福島第一原発の周りには、汚染土の中間貯蔵施設が広がる。
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木村紀夫さん(57)は先月、かつて暮らしたこの地の一角から、スマホのライブ配信で学生らに問いかけた。
「原発事故での東京電力の責任は重い。でも、電気を使っているのは自分たち。いま原発再稼働の流れが強まっています。その上に成り立つ豊かな世の中って、どうなんでしょうか」
■終わらぬ被災の現実
木村さんの次女、妻、父は、東日本大震災の津波で行方不明になった。原発事故で捜索もままならないまま、避難指示で故郷を追われた。その過酷な体験を語る活動を続ける。災害への備えや事故の背景を自分ごととして考えてほしいからだ。
政府は「原発復権」へかじを切りつつある。どう感じるか。木村さんは、こう答えた。
「あれだけのことがあったのに、世の中変わらないんだな。自分の経験が伝わらないと思うと、息苦しいですね」
震災と津波、そして福島第一原発の事故から12年。現地を訪れると、終わりが見えない被災の現実が目に入る。
廃炉作業中の原発建屋は、爆発で崩れた壁やひしゃげた鉄骨が今も残る。政府は「廃炉完了に30~40年間、費用は8兆円」と想定するが、その程度ではすまないとの見方が多い。
敷地には、汚染水を処理した水のタンクが林立する。政府は「春から夏ごろ」に海に放出する構えで、土木工事が急ピッチで進む。だが、風評被害への危惧が強く、地元漁業者らは反対の姿勢を崩していない。
■戻される時計の針
周辺では街の再生への粘り強い取り組みが続く。帰還困難区域でも除染で放射線量が下がった「復興拠点」では、昨夏から避難指示が解除され始めた。
双葉町では公営住宅が建ち、役場も戻った。だが、生活環境の回復は十分でなく、かつて7千人が暮らした町にいま住むのは約60人だけだ。伊沢史朗町長は訴える。「国の政策に協力した町でコミュニティーが一瞬で崩壊した。日本は必ず犠牲者を助ける国であってほしい」
3・11は、ひとたび原発が制御不能に陥ると、取り返しのつかない惨禍を招く現実を見せつけた。収束作業は難航を極め、避難地域の大幅な拡大が現実味を帯びる局面もあった。
甚大な代償を払ったすえに得た社会的合意が、原発の「安全神話」との決別と、エネルギー政策の転換だった。
「原発依存度を可能な限り低減」するという政府の方針が打ち出され、安全規制も一新された。高い独立性を持つ原子力規制委員会が設けられ、個々の原発の運転期間も制限された。朝日新聞の社説も、再生可能エネルギーを拡大しつつ脱原発を着実に進めるよう訴えてきた。
ところが昨年来、岸田政権が時計の針を戻すような動きを加速させている。原発を「最大限活用」する新方針を決め、建て替えや運転期間の延長に踏み出した。今国会で関連法案の成立を図る構えだ。復権を主導する経済産業省に規制委が追随し、「推進と規制の分離」も揺らいでいる。
政権は再転換の理由に、足元のエネルギー供給不安や脱炭素化への対応を挙げる。だが、仮にそうした状況を視野に入れるとしても、被災地の苦境から目を背け、原発事故から学んだ教訓を投げ捨てる理由には、断じてならない。
被災地に中間貯蔵する汚染土の処分先は今も棚上げ状態だ。事故後対象地域が広がった住民避難の計画づくりに難航する原発立地地域も多く残る。「核のごみ」の最終処分は解決の道筋さえ見えない。にもかかわらず、国民的な議論もなしに原発回帰を進めるのは、被災を風化させることにほかならない。
■原点ゆるがすな
政権の新方針も「事故への反省と教訓を一時も忘れず、安全性を最優先することが大前提」とはうたう。だが、問題は内実だ。自民党の麻生太郎副総裁が「原発で死亡事故はゼロ」と発言したように、リスクを矮小(わいしょう)化し、安全神話を復活させるような動きは消えていない。
国会の事故調査委員会に加わった石橋哲・東京理科大教授はこう述べる。「教訓を忘れないとよく語られるが、その中身や事故の根本原因を、原発にかかわる人たちも国民も、突き詰めて考えてこなかった。情緒的な言葉で物事を押し流している」
政策当事者は課題を直視せず対処を先送りする。政治は熟議と合意形成の責務を果たさず、世の中にも無関心や根拠なき楽観が広がる――。12年前に猛省を迫られた社会の体質は、はたして改善しただろうか。
福島の苦闘に向き合う。あの時の経験と教訓を思い起こし、進むべき道を考える。その原点をゆるがせにはできない。
教訓を後世に伝承する重みを再認識すべきだ。
東日本大震災後に自治体や民間団体が集めた写真や報告書類をインターネットで公開しているデジタルアーカイブは、50を超える。だが、発生から10年を過ぎてから、閉鎖したり停止したりする団体が出始めている。
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昨年3月に「茨城県東日本大震災デジタルアーカイブ」が閉鎖したほか、岩手県1市2村の「久慈・野田・普代震災アーカイブ」も21年4月に公開を停止し、現在は閲覧できない。
ほかにも農林漁業の協同組合の復興を記録していた農林中金総合研究所、東京電力福島第一原発事故の際の活動記録などに関する日本赤十字社のアーカイブも閉鎖し、国立国会図書館の震災記録のポータルサイト「ひなぎく」に情報を承継した。
維持や運営にかかる負担が大きいことなどが背景にある。
国会図書館には複数の機関から、データを引き継いでほしいという相談が寄せられている。移管されれば、ひなぎくのサイトで検索や閲覧はできる。ただ改めて許諾を得なければならないものもあり、全資料をそのまま承継できるわけではない。
非公開となっている記録は扱いが難しく、同図書館は「運営主体がなくなれば問い合わせもできなくなる」と懸念する。
権利処理をふくめ収集団体が責任を持って保存・公開の体制を維持することが理想で、国会図書館への移管は最終手段と考えるべきだろう。
東北大学災害科学国際研究所の柴山明寛准教授は「地域で集めた情報はそこに住む人にこそ利用価値が高い。移管によってサイト独自の工夫やアクセスのしやすさが失われるのはもったいない」と警鐘を鳴らす。
政府は震災の年に策定した「東日本大震災からの復興の基本方針」で「記録・教訓の収集・保存・公開体制の整備を図る」と明記し、自治体や大学向けに保存と活用のガイドラインも作った。ならば運営に窮する団体の実情を把握し、存続を含めた相談に乗り出すべきだ。
生々しい津波の映像や被災者のインタビュー動画は、学校教育や自治体の防災計画策定に役立てられている。その積み重ねが次の被害を防ぎ、復興への道筋を示す手掛かりとなる。
活用を促す工夫も必要だ。「いわて震災津波アーカイブ 希望」を運営する岩手県は、テーマ別の検索画面を設け、あいまいな言葉で検索してもヒットするよう独自の辞書も開発中だ。収集から活用へ、使いやすい環境をさらに整えてほしい。
復興が一段落しても記録のもつ役割が終わるわけではないことを改めて認識したい。
東日本大震災からきょうで12年となる。沿岸部を襲った大津波と東京電力福島第1原発事故などにより、関連死を含めて2万2000人以上が犠牲となった。
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今も約3万1000人が避難生活を強いられている。そのうち9割は福島の住民だ。放射線量の高い帰還困難区域が広範囲に及ぶ自治体では、多くの住民が戻らず、復興が遅れている。
政府はこの区域のうち「復興拠点」と位置付けたエリアの除染を進めている。だが、区域全体の1割に満たない。
拠点外についても、希望者が戻れるように環境を整える方針だが、除染の範囲は帰還希望者の自宅や周辺道路などに限られる見込みだ。全域除染を望む住民には戸惑いがある。
失われた地域のきずな
福島県浪江町は、こうした現状を象徴する自治体だ。現在の居住人口は事故前の1割以下の2000人弱にとどまる。帰還困難区域が県内で最も広く、町域の8割を占めることが大きなハンディとなっている。
「一部だけ除染されて一人で戻っても、山村の暮らしは成り立たない。国はまず地域コミュニティーを維持できる環境を整備すべきだ」。県内で避難生活を送る佐々木茂さん(68)はそう主張する。
震災前は、浪江の山あいにある津島地区の東部に住んでいた。集落では、お盆が近づくと住民が総出で道の草刈りをするなど、協力して地域の営みを守っていた。
だが、今は津島の全域が居住できない状態にある。佐々木さんは住民650人が国と東電を相手取った訴訟の原告団副団長だ。線量を事故前の水準に戻す「原状回復」を求めているが、1審では認められず、控訴審で争っている。
原発事故で暮らしが一変した人たちの神経を逆なでするような政策の転換が昨年あった。
岸田文雄政権は最長60年とされる既存原発の運転期間を実質的に延長し、次世代型への建て替え推進も打ち出した。事故以来の「脱原発依存」の旗が降ろされようとしている。
佐々木さんは「津島がまだこんな状況なのに、政府は福島の問題を終わったことにしようとしている」と憤りを隠せない。
町民の間には、原発回帰の動きが事故の記憶を風化させると懸念する声もある。
語り部団体「浪江まち物語つたえ隊」は震災翌年から、事故直後の混乱や避難生活の苦労などを紙芝居にし、県内外で上演してきた。団体を設立した小沢是寛(よしひろ)さん(77)は「事故を忘れないように取り組んできた今までの活動は何だったのか」と嘆く。
体を壊し、医療環境が不十分な町に戻ることは諦めた。妻と2人で暮らす避難先では近所付き合いが乏しく、どちらかが一人残された時を思うと不安になる。
小沢さんは「友達も親戚もばらばらになった。福島は今も多くの課題を抱えていることを知ってほしい」と訴える。
教訓忘れた政府に憤り
原発事故に早く区切りをつけたい政府と、長引く事故の影響から逃れられない地元住民。両者の意識には大きな隔たりがある。
廃炉には数十年かかるとみられている。国などの住民アンケートによると、帰還をためらう理由として、病院や商業施設の不足のほか、原発の安全性への不安を挙げる人は少なくない。
第1原発の敷地内にたまり続けている処理水は、今春以降に海洋放出される見通しだ。だが、漁業者らの風評被害への懸念は強い。東電は昨年末、被害が生じた場合の賠償基準を公表したが、理解が得られるめどは立っていない。
県内各地の除染で集められた汚染土などは大熊、双葉両町の中間貯蔵施設で保管され、2045年までに県外へ搬出して最終処分されることになっている。しかし、受け入れ先は決まっていない。
こうした解決の難しい問題が地域の将来に重くのしかかる。
住民は古里を奪われ、住む場所をなくしただけではない。親しい人と交わって暮らす幸せや安心も失った。事故から12年になっても、喪失感は癒えていない。
原発事故は終わっていない。
政府は原発回帰を急ぐのではなく、住民一人一人の苦難を直視すべきだ。どこに身を寄せようとも、人とのつながりや生きがいを見つけられるよう、支援に力を入れる責任がある。
専用のゴーグルを着用した子どもたちから驚きの声が上がりました。教室前の見慣れた廊下が、みるみる白煙に包まれたからです。視界はさえぎられ、歩くことができません。しゃがむと煙が薄くなることに気付いた子が姿勢を低くして、前に進みます。
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「3・11」を前に、東京都三鷹市立高山小学校で五年生の百八十人ほどが参加した防災訓練のひとこまです。ゴーグルには板宮朋基神奈川歯科大教授(画像処理学)が開発した拡張現実(AR)のアプリが使われています。ゴーグル越しの風景に、充満した煙の映像が重なり、火災に直面したような体験ができるのです。
高山小では毎月、避難訓練をします。全員が避難し、無事を確認するまで当初は五分近くかかりますが、訓練を重ねると三分半に短縮できるそうです。吉村達之校長はさらにAR訓練を四年前から始めた理由を「よりリアルな感覚をもってほしいから」と語ります。
いずれ来るとされる南海トラフ地震や首都直下地震に向け、われわれに求められるのは、まさにこの点です。現実に起こり得ると考え、平時から、いかに想像力を働かせ、備えられるか。東日本大震災や阪神大震災では津波や建物倒壊のほか、各地で火災が発生しました。火災の犠牲者の多くは煙を吸い込んだことによる中毒や窒息死です。煙は炎より速い秒速三〜五メートルで上昇し室内に充満します。
◆走って逃げられない
AR訓練を終えた子どもたちは「周りが何も見えなかった」「口をふさぐためのハンカチを常備するべきだ」などの感想を口々に。煙からは走って逃げられないことを実感として学んだようです。
浸水訓練もありました。校庭にタブレット端末をかざすと、自分たちの胸まで水につかった映像が見られます。わが身に迫る漂流物の現実感に悲鳴も上がりました。
さて、ここからが本番です。会議室に場所を移した子どもたちに先生は問いました。登下校時や外出時、就寝時に地震が来たら、どんな行動をとるべきですか。「怖さ」を体感した子どもたちの目はいつにもまして真剣です。
話し合いの輪に「みたかSCサポートネット」のメンバーが加わり、助言していました。東日本大震災時、三鷹でも震度5弱の揺れがありました。師橋千晴代表理事によると、ちょうど保護者会の日で、児童を先に帰していました。親は皆、心配でならなかったと言います。その体験からサポートネットを立ち上げ、地域や学校で防災訓練や防災教室のコーディネーター役を担っています。
小学校低学年なら、いかに自分の命を守るか、高学年や中学生になると、地域の担い手としての自覚を持ち、「共助」の視点を育めるよう、支えるそうです。防災・減災は地域や社会全体で取り組んでこそ、より真価を発揮します。
高山小の訓練に協力した一般社団法人、拡張現実防災普及(ARB、東京)は板宮教授の弟、晶大さんが立ち上げました。これまでに学校や施設、地域など三百カ所でARなどを使った煙や消火、浸水、地震体験を実施しています。
NTTの子会社などは、さらに現実性を高められないかと、人の分身(アバター)がネット上の仮想空間(メタバース)で災害を疑似体験し、いざという時の対応を学べる取り組みを始めます。
東日本大震災の発生から今日で十二年。あの日は、最近街中でめっきり減った公衆電話=写真(下)=に長蛇の列ができました。携帯や一般の固定電話には通信制限がかかったり、停電もあったからです。公衆電話は通信制限の対象外ですし、停電時にも使えます。
◆見直される公衆電話
時の流れは速いものですね。考えてみると高山小の子どもたちは東日本大震災時、生まれていません。各種の調査によると、公衆電話を一度でも使ったことがある小学生は十人中一人か二人にとどまります。皆さんのお子さんやお孫さんは公衆電話の使い方を知っていますか。ちなみにNTTのホームページからは、バーチャルで公衆電話のかけ方が学べますし、わが街のどこに公衆電話があるかを調べることも可能です。
福島から娘たちを避難させた選択は間違いではなかったと、無事に成人して安堵(あんど)している。その一方、自分たちだけが逃げ出したような負い目から逃れられない−。
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東京電力福島第一原発事故からの十二年は、今は京都市に住む団体職員の高木久美子さん(56)=写真=にとって、葛藤の渦の中で過ごした時間でもありました。
事故が起きた二〇一一年三月十一日、原発から五十キロのいわき市に家族五人で暮らしていた高木さんは、同居する実母と小学生の二人の娘を出身地の秋田に避難させ、夫婦はいわきに残りました。
でも夫は娘たちの長期避難に反対でした。娘たちは九カ月後、いわきに戻りますが、高木さんは放射線量を気にしてばかりの生活に疲れてしまい、震災翌年に娘二人を連れて京都に移ります。
災害救助法に基づいて福島県が原発避難者に無償提供し、京都市が用意した公営住宅でした。京都に知る人がいなくても娘たちの命と健康を守りたい一心でした。
つらかったのは国や東電が福島の人々を、避難指示区域の「内」か「外」かで選別したことです。
高木さんら区域「外」の人に母子避難が多いのは、東電からわずかな賠償しかなく、夫は妻子の避難生活を支えるため地元に残って働かざるを得ないためです。いわきの夫と二重生活になった高木さんも仕事を必死で探しました。
◆自主避難の葛藤の中で
京都では放射線の心配から解放されましたが、夫との別れが待っていました。
「一緒に避難を」と説得しましたが、夫は「そこには四十歳すぎの男に仕事はない」。夫婦の溝は埋まらず、避難の翌年、離婚に至ります。父親と会えないことは娘たちを不安定にし、不登校になった次女は「お父さんに会いたい」と言って泣きました。
いわきの家は夫婦で働いて建てた家でした。家を出るときに持ってきた家族写真には、娘たちと若い母親の自分が写っています。撮ったのは夫…。家族と離れる夫のつらさも、今なら分かりますが、原発事故は思いやりも正気も奪い、多くの家族に苦悩と離散をもたらしました。
「事故さえなかったら、今も家族は一緒だった」。高木さんの胸には、抜けない悔恨のとげが刺さったままです。
国と東電は原発事故の痛みや犠牲の多くを被災者個人に押しつけてきました。「反省」を口にはしますが、責任逃れの言葉の陰に隠れてしまっています。
原発事故避難者の取材をしていると、区域外避難者の離婚をよく耳にします。しかし、国と東電は自己責任で避難した人たちを「自主避難者」と呼び、まともな賠償をしてきませんでした。あちらこちらで発せられる家族の痛みなど聞こえないかのようです。
京都に来てからの高木さんは行動する人に変わりました。
一三年、京都府に自主避難した人たち五十七世帯百七十四人が国と東電に計八億四千万円余の損害賠償を求めた集団訴訟の原告に加わりました。一八年春、京都地裁は国と東電の責任を認め、一部原告を除いた百十人に計約一億一千万円の賠償を命じました。国の賠償基準を超える内容で、審理は大阪高裁で続いています。
原発賠償裁判で勝ち取った判決は、国が昨年、九年ぶりに着手した原発賠償基準(中間指針)の見直しにつながりました。
ただ、避難指示区域外の避難者も賠償の増額対象ですが、その額はごくわずかです。区域内賠償の増額に主眼が置かれ、「区域内外で格差が広がる恐れ」を指摘する専門家もいます。
国は被災者を分断するような政策はやめ、区域外の人々にもまともな賠償をすべきでしょう。
◆寄り添い合う仲間得て
高木さんは「風評被害をまき散らすな」と非難され、福島では放射線被害を語れませんでした。避難先での生活費が続かず福島に戻った母子も見てきました。
原発事故で失った多くのものを私たちは忘れてはなりません。だからこそ、原発事故の問題を福島に閉じ込めず、広く問いかける必要があるのです。そのためには人と人とのつながりを太く、強くしたい。それが、原発事故の被災者にとって未曽有の核災害を乗り越え、生きる力になるはずです。
寄り添い合える仲間を得て、京都に根を下ろして生きると決めた高木さん。表情に明るさが戻り、力を込めてこう語るのです。「次世代に対する責任として福島の人の分まで京都で声を上げたい」と。