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しばらくかかりそ。サグラダファミリアより遅くなるかも。

「国語」の将来のための議論を(東京新聞夕刊より)

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「国語」の将来のための議論を
2019.02.15 東京新聞 夕刊

日本文芸家協会が「高校・大学接続『国語』改革についての声明」を出した。センター試験に代わる「大学入学共通テスト」と、高校国語の「指導要領」改革に対する懸念が示されている。本欄でも度々取り上げられた紅野謙介『国語教育の危機』の示す通り、教育現場から「文学」が大幅に削減され、代わって契約書などの実用文が扱われるようになることに対するものだ。
一方、『AI VS 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)で
話題の新井紀子が、高校国語に『山月記』などいらない、とネット上で言って大騒ぎになっている。新井は同書で、今の中学生の多くが教科書の文章も読めていないのではないかという恐るべき結果を提示したが、それが事実だとしても、大学受験と高校国語を一気に変えることの理由にはならないだろう中学の教科書が読めないなら、まず変えねばならないのは小学校だ
ボタンを掛け違えたまま炎上するのは、真剣に「国語」の将来を案じるどちらの側にとっても勿体ない。その点、「単純な二項対立や表層的な水かけ論ではなく、日本語とは何か、文学とは何か、教育とは何かという」議論を呼び掛ける先の「声明」がバランスがとれている。真摯かつ建設的な議論を好む。(人虎)
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下記の問題に関しては、数学算数の教科書が”読めない”(ことにされている)のに、なぜ大学受験国語や高校国語を変えようとするんだ?

国語の問題ではなく、数学か算数の語彙やその理解の問題、

あるいは(日本語で数学・算数を教えているとすれば)、
国語教育、国語教師のみの問題ではなく、
日本語を使う数学・算数教育、数学(算数)教師の問題だろうに。

(その中に、大学受験国語と高校国語におよそ全ての責任を押し付ける新井紀子を含めるべきかどうかは知らんけど)

大学入試国語や高校国語を変えるのではなく、上記の通りまずは小学校あるいは中学校を見直すべき、

加えて教科としての国語のみでなく、

むしろ
(おそらくは日本語で授業する)数学・算数、理科系統、社会系統を主軸として、教科としての国語以上に責任を持たせて、言語とイメージその他の相互作用を通して(未だ定義不明、意味不明の)読解力なるものを引き上げていった方がいいのではないか。

人によっては、上記の”日本語”を”外国語”に置き換えれば受け取りやすい、分かりやすいということも、場合によってはあるかもしれない。

下記の問題、(
設問にもよるだろうが)山月記正答率の方が高くなるんじゃないか?
仮にそうなった際には山月記と同様に、もしくはそれ以上に原点、座標、x軸、円やその接線なんていらない、教えなくてもいい、とか言い出したりは、、、。



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