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ノーサイド

ノーサイド

ノーサイドは、ラグビー(特にラグビーユニオン)において、試合終了のことを指す(英語圏でもかつては「No side」が使われていたが、現在では「Full time」が使われている[1])。戦い終えたら両軍のサイドが無くなって同じ仲間だという精神に由来する。

 

日英同盟

日英同盟(にちえいどうめい、: Anglo-Japanese Alliance)は、日本イギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約[1])である。

1902年1月30日ロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的としてイギリス外務省において日本駐英公使林董イギリス外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で調印された[2]

第一次日英同盟の適用範囲は東亜(清韓両国)

その後、第二次(1905年)、、第三次(1911年)と継続更新されたが、1921年ワシントン海軍軍縮会議の結果調印された四カ国条約成立に伴って、1923年8月17日に失効した[3]

第二次日英同盟は、適用範囲として東亜にインドを加え、大韓帝国については、第一次よりさらに踏み込んだ保護国化(第三條)で両国が妥結

 

清の利権争い

1895年日清戦争で清国が日本に敗れて以降、中国大陸をめぐる情勢は一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清国政府はロシア帝国フランスから借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与する羽目になったが、これがきっかけとなり、急速に列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来の清のイギリス一国の半植民地(非公式帝国)状態が崩壊したのである[4]

とりわけ、シベリア鉄道満洲北部敷設権獲得に代表されるロシアの満洲や北中国への進出は激しかった[5]。フランスもフランス領ベトナムから進出して雲南省広西省広東省四川省など南中国を勢力圏に収めていき、北中国を勢力圏とするロシアと連携してイギリスを挟撃してくる恐れが生じた(ロシアとフランスは1893年露仏同盟を締結しており、三国干渉に代表されるように中国分割においても密接に連携していた)[6]

これに対抗してイギリス首相第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは、清国の領土保全を訴えることで露仏が中国大陸におけるイギリスの権益を食い荒らすのを防ごうとした。さらに1896年3月にはドイツ帝国と連携して露仏に先んじて清政府に対日賠償金支払いのための新たな借款を与えることで英独両国の清国内における権益を認めさせた[7]

また1896年1月にはフランスと協定を締結し、英仏両国ともメコン川上流に軍隊を駐屯させず、四川省雲南省門戸開放することを約定した。これによってフランスの北上に一定の歯止めをかけることに成功した[7]

独露の進出阻止

1897年に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツ軍が清に出兵し、膠州湾を占領し、そのまま同地を租借地として獲得した。これについてソールズベリー侯爵ははじめドイツがロシアの南下政策に対する防波堤になるだろうと考えて歓迎していたが、ヴィルヘルム2世が山東半島全体をドイツ勢力圏と主張しはじめるに及んでドイツへの警戒感も強めた[8]

1898年に入るとロシアが遼東半島旅順を占領し、さらに大連にも軍艦を派遣し、清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とした[9]。これに対抗してソールズベリー侯爵はこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、清政府に砲艦外交をしかけて、「ロシアが旅順占領をやめるまで」という期限で山東半島威海衛をイギリス租借地とした。同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために山東半島をドイツ勢力圏と認めたが、これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものであり、イギリスにとって大きな痛手だった[10]

1899年に入った頃にはロシア帝国主義の満洲と北中国全域の支配体制はより盤石なものとなっていた。ロシアがこの地域に関税をかけるのも時間の問題だった[11]。さらに1900年に起こった義和団の乱に乗じてロシアは満州を軍事占領した[12]。ロシアは満州からの撤兵の約束をしたが、なかなか撤退しようとせず、むしろ南の朝鮮半島にも触手を伸ばすようになった。これにイギリスと日本は警戒を強め、両国の間に対ロシアという共通の紐帯ができた[2]

同盟締結

この頃、日本の政界では、伊藤博文井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋桂太郎西郷従道松方正義加藤高明らはロシアとの対立は遅かれ早かれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。

結局日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎により日英同盟締結の交渉が進められた。伊藤ももはや日英同盟に反対はせず、1902年1月30日にはロンドンの外務省において日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はソールズベリー侯爵内閣の外務大臣第5代ランズダウン侯爵ペティ=フィッツモーリスであった[2]

第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動ロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。

また日英同盟を契機として日本は金準備の大部分をロンドンに置き、その半分以上はイギリス国債に投下したり、またはロンドン預金銀行に貸し付けるようになった[13]

第二次同盟

第一次同盟は1902年1月30日から起算して5年間の有効とされた。しかし、締結2年後に日露戦争開戦し、戦況が日本軍の優勢となったことが英国内で報じられると、英国では同盟拡張などの唱道者も現れた。第一次同盟に調印したランズダウン英国外相は、1905年3月下旬に在英国日本国大使館の林大使との介して、同盟継続について準備協議を希望する旨を日本側に打診した。これを受けた日本側は協議を進め、日本政府が同年5月24日に閣議で裁可した新交渉案を英国に提示し、両国の事前交渉が始まった。

イギリス側は同盟の適応範囲をインドまで拡大することを希望したが、新たな戦争に巻き込まれたくなかった日本は難色を示した[14]。両国間で更なる協議が進められた結果、第一次では適用範囲が東亜(清韓両国)とされていたが、

第二次日英同盟では

東亜にインドを加えた適用範囲に拡大された。

また、大韓帝国については、国際情勢から第一次よりさらに踏み込んだ保護国化(第三條)で両国が妥結し、

第一次日英同盟での防守を主軸とした内容が、第二次では攻防へ変更された。

英国側はランズダウン外相、日本側は小村外相がポーツマス条約の事前交渉で米国に渡米していたことから、在英国日本国大使館の林特命全権大使が出席調印し、8月12日ロンドンで第二次日英同盟が締結された。

第二次日英同盟では、

イギリスのインドにおける特権と、国に対する両国を含む列国の商業的機会均等を肯定し、

さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けた攻守同盟に強化された[14]

日本の大韓帝国保護国化をイギリスが承認する条件で妥協した。

また、同盟の有効期限が10年間へと変更延長となった。

同条約は、ポーツマス条約後の同年9月27日に両国で公表されている。

第三次同盟

1911年に更新された第三次日英同盟では、アメリカが交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。 さらに、同年に発生した辛亥革命に対する日本の行動にイギリスは同調せず官軍と革命軍の仲介を図ったため、日本側はイギリスに不信感を持ち、両国にとって条約の重要性は低下した[14]。 また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。

同盟解消

第一次世界大戦後の1919年に、パリ講和会議で日本とイギリスを含む「五大国」の利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残り[15]1921年に、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、日英同盟は拡大解消した[16]

「拡大」とはいってもこれは日英同盟の実質的弱体化であった。当時のイギリスの外相アーサー・バルフォアは「20年も維持し、その間二回の大戦に耐えた日英同盟を破棄することは、たとえそれが不要の物になったとしても忍び難いものがある。だがこれを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」という心境を告白している[17]