艤装してます

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しばらくかかりそ。サグラダファミリアより遅くなるかも。

神道弾圧、皇統簒奪な僭称の誕生日らしい会見である

大正帝、昭和帝の大喪の礼の地を、放射性汚染土まみれにしたいらしい。
本当に汚染が除去されているなら、天下の悪法の有無に関わらず、元の地へ戻せばいいだけのはず。なぜ、相馬市や二本松市で住民による大反対が発生し、頓挫したのか。

>国は最終処分する量を減らすため除染土を再利用する方針で、福島県飯舘村で農地に再利用する実証事業を行っている。ただ、同県南相馬市二本松市で検討していた事業は住民の反対で頓挫した<

原発除染土を駐車場や花壇で再利用 福島県外で初の実証実験の方針
関根慎一2022年8月3日 20時00分

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 環境省は3日、東京電力福島第一原発事故で出た除染土を駐車場や花壇に再利用する実証事業を、年度内に福島県外で初めて行う方針を示した。国は除染土を2045年までに県外で最終処分する方針で、再利用は処分量を減らすための取り組み。初めて除染土を大規模に県外に持ち出すことになり、住民の理解がカギとなる。現時点で事業候補地のめどは立っていない。

 除染は放射線量を下げるために行われ、線量が高い帰還困難区域以外の除染で出た県内の除染土は約1400万立方メートル(東京ドーム11杯分)。国は45年までに県外で最終処分する方針を法律に定めているが処分先は決まっておらず、同県大熊町双葉町の中間貯蔵施設で保管を続けている。

 国は最終処分する量を減らすため除染土を再利用する方針で、福島県飯舘村で農地に再利用する実証事業を行っている。ただ、同県南相馬市二本松市で検討していた事業は住民の反対で頓挫した。
 環境省は3日に開いた専門家…

www.asahi.com

 

 >東京電力福島第1原発事故後の除染で取り除いた土について、西村明宏環境相は9日の閣議後記者会見で、新宿御苑(東京都新宿区)(略)でも再利用の実証試験を計画していることを明らかにした<

除染土再利用の実証試験 新宿御苑、つくばでも計画 自治体と調整
12/9(金) 16:48配信

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 東京電力福島第1原発事故後の除染で取り除いた土について、西村明宏環境相は9日の閣議後記者会見で、新宿御苑(東京都新宿区)と国立環境研究所(茨城県つくば市)でも再利用の実証試験を計画していることを明らかにした。既に公表した環境調査研修所(埼玉県所沢市)と合わせ、環境省関連施設計3カ所での実施に向けて関係自治体と調整している。

 再利用するのは、1キロ当たりの放射性セシウム濃度が8000ベクレル以下の除染土。同省によると、新宿御苑では一般の利用者が立ち入りにくい管理事務所そばの花壇に除染土を埋め、もともとあった土で覆うことを想定。21日に周辺住民を対象に説明会をする。国立環境研究所では、駐車場の基盤材として再利用する計画だという。同省は実証試験を通じて、施工、維持管理時の安全性を確認し、再利用への理解醸成につなげたい考えだ。

 除染土は福島県大熊、双葉町にある中間貯蔵施設で保管され、2045年3月末までに県外で最終処分することが法律に明記されている。再利用は最終処分する量を減らすのが目的で、これまで福島県内で実証試験を行ってきた。【岡田英】

mainichi.jp

 

桜を見る会において、メディアスクラムを組ませ、メディア総動員で攻撃させている頃に、表題、 神道弾圧、皇統簒奪な僭称のために、春、秋の園遊会を亡きものにしたいのではないかと邪推していたのだが。
地方公務(えり好み公務、都合のいい公務)とやらを再開し、一般参賀を利権化(抽選制に移行)する中で、 春の園遊会、秋の園遊会の再開はいったいどうなっているのか?

園遊会の沿革 (wikiより)

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 近代、天皇が主催する戸外での宴会としては、1880年明治13年)に「観菊会」、1881年明治14年)に「観桜会」が始められた。条約改正への対外的な文化・世論工作の一環として井上馨外務卿が発案し、当初から多くの外国人が参加した。

 エドワード英王太子、物理学者のアインシュタインヘレン・ケラーといった著名人のほか、無名の旅行者もいた[1][2]。

 観桜会は八重桜の咲く浜離宮で観菊会は赤坂離宮で行われ、英国の高位の令嬢が陛下に謁見し社交界デビューする機会の場を日本国に移入する場として観桜会、観菊会は始められたが、外交が目的になり当初の目的は薄れる[3]。しかし日中戦争に伴い、「観菊会」が1937年に[4]、「観桜会」が1938年に[5]それぞれ中止された。

 「園遊会」の名称で行われる行事は、1953年から始まる。当初は秋に限り行われていたが、1965年から春にも行われるようになり、現在に至る。それぞれ“秋の園遊会”、“春の園遊会”と呼ばれ、赤坂御苑で催されることが通例である。招待者は宮内庁が各省庁に依頼して人選するが、各省庁は叙勲、褒章、大臣表彰等を受けた者のほか、大臣や族議員らの意向も踏まえてリストアップすることもある[6]。また、春の園遊会に各国の外交使節団の団長以下の外交官や、各国領事館の館長と、その配偶者、令嬢も招待される。

 招待者名簿は公表されセキュリティ上、招待者以外は入ることができないことになっているが、唯一、2014年春に豊田真由子の母が配偶者と偽って侵入した例が確認されている[7]。

 昭和天皇の病気・崩御により1988年秋と1989年春秋の園遊会が中止となった。また、1995年1月の阪神・淡路大震災により春の園遊会が、香淳皇后崩御により2000年秋の園遊会が、2011年3月の東日本大震災により春の園遊会が、2016年10月の三笠宮崇仁親王薨去により秋の園遊会が、新型コロナウイルスの感染拡大により2020年の春と秋の園遊会[8]ならびに2021年の春と秋の園遊会、2022年の春の園遊会がそれぞれ中止になった。

 第二次世界大戦前の「観桜会」「観菊会」は、現在ではそれぞれ、内閣総理大臣が主催する「桜を見る会」と、環境大臣が主催する「菊を観る会」に受け継がれている。

桜を見る会の歴史 (wikiより)

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 桜を見る会の前身として「観桜会」がある。この観桜会1881年明治14年)に吹上御所で「観桜御宴」が行われたのを前史とし、1883年(明治16年)から1916年(大正5年)までは浜離宮、1917年(大正6年)から1938年(昭和13年)までは新宿御苑に会場を移し、いずれも国際親善を目的として皇室主催で行われていた。

 この観桜会を復活させる形で1952年(昭和27年)に当時首相の吉田茂が総理大臣主催の会として始めたのが「桜を見る会」である。開催地は観桜会と同じく新宿御苑となるが、同園は1947年(昭和22年)の閣議決定により旧皇室庭園から国民公園へと変更されている[3]。また、桜を見る会が始まった翌年の1953年(昭和28年)には、戦前の観桜会や観菊会(現在の菊を観る会)に代わる皇室主催の社交界として園遊会が開始された。

 1960年(昭和35年)は日米安保条約を巡る安保闘争が激化に至る直前の時期となっており中止された[4]。

 1970年(昭和45年)にはそれまでごく僅かであった自衛官の招待数を増やした[5]。

 1995年(平成7年)は阪神・淡路大震災を理由として中止された[6]。

 2000年(平成12年)には、当時首相の小渕恵三が同年4月2日に脳梗塞で入院したため[7]、同月5日には森喜朗内閣が発足した[8]。このため、同年の桜を見る会は後に当時首相の森が主催している[9]。官邸サイトに掲載された当日の写真は参加者の黒服と黒傘が印象的である[9]。

 2011年(平成23年)は東日本大震災[10]、2012年(平成24年)は北朝鮮弾道ミサイル発射への対応を理由として中止された[11][12]。

 2019年に開催状況への議論(桜を見る会問題)が起こる。同年11月、全般的な見直しを行うことと、それに伴う2020年度の開催中止が発表された[13]。2020年6月15日、参院決算委員会では運営の見直しを求める「措置要求決議」を全会一致で可決した[14]。

 2020年(令和2年)9月16日、首相の菅義偉は、2021年以降の桜を見る会を中止すると表明した[15]。 

 

下記は2019年の書き込み。武漢ウイルスの最初の症例が確認されたのは(表向きは)同年12月。それ以前のものです。