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しばらくかかりそ。サグラダファミリアより遅くなるかも。

皇太子/皇太弟/皇嗣殿下、58歳に。皇族の数減少で公務は「何らかの見直しは必要ではないか」との報道

秋篠宮さま58歳 皇族減少「活動見直しも」

産経新聞、11/30(木) 0:09配信

 

秋篠宮さまは30日、58歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、赤坂御用地の赤坂東邸(東京都港区)で記者会見し、皇族数の減少が進む中での皇室の活動について、「何らかの見直しを行うということは必要になってくるのではないか」との認識を示された。

 

秋篠宮さまは会見で、女性皇族が結婚で皇室を離れる現在の制度下において、皇族数の減少は「必然的」とご指摘。皇族が担う総裁職などについて、「引き継ぐことというのは難しくなってきてしまいます」と述べ、引き継ぐべきでないものもあると言及された。ただ、公的活動の見直しは皇族主導ではなく、「それを主催している人と宮内庁で話し合う事柄」との認識も示された。

 

会見ではこの1年を振り返り、ロシアのウクライナ侵攻が継続していることや、イスラエルパレスチナ情勢に触れ、子供の死者が多く出ていることに「非常に心が痛みました」とご述懐。一方、新型コロナウイルス感染症法上の分類が見直され、人々の活動が以前に近い状態に戻ってきているのは「大変喜ばしいこと」と笑顔を見せられた。

 

www.iza.ne.jp

 

 

秋篠宮さま58歳、皇族の数減少で公務は「何らかの見直しは必要ではないか」…情報の発信遅れに反省

読売新聞オンライン、11/30(木) 0:00配信


 秋篠宮さまは30日、58歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち東京・元赤坂の赤坂東邸で記者会見に臨み、皇室の公的活動は、皇族の数の減少を踏まえると「何らかの見直しを行うことは必要になってくるのではないか」と述べられた。

 

 秋篠宮さまは、女性皇族の結婚による皇籍離脱や皇族の高齢化は「必然的なこと」と指摘された。

 

 ただ、自身の公務は、主催者からの依頼に基づく「受け身」的なものが多いため、自ら見直しを主導するつもりはなく、「主催している人と宮内庁で話し合う事柄」と語られた。

 

 国会で議論されている安定的な皇位継承策に関する質問には「皇室制度に関係してくることで、私がお話しするものではない」と述べられた。

 

 皇室へのバッシング報道を念頭においた皇室の情報発信の強化については「大切な情報を役所のウェブサイトでタイムリーに発信していくことは大変大事なこと」と強調された。

 

 一方、「自分のことがタイムリーじゃなかった」として、昨年9月に終了した秋篠宮邸の改修工事を巡る発表に言及された。当初、ご一家は全員が仮住まい先から本邸に戻られる予定だったが、実際には次女の佳子さま(28)だけは数十メートル離れた仮住まい先にとどまられた。この事実を宮内庁が公表したのは今年6月になってからだった。

 

 秋篠宮さまは会見で、佳子さまの部屋を本邸に設けなかった理由を「いずれ(結婚して)家から出て行くわけで、無駄になる」と説明。当初はプライベートや安全上の観点から公表しなかったが、やはり「大きな変更」で説明が必要と考え直されたという。「私自身かなりぐずぐずしていた。非常にタイミングとして遅くなったのが反省点です」と率直に語られた。

 

 佳子さまの結婚については「彼女の考えをよく聞いて、こちらの思うところも伝える感じで話し合っていければ」としつつ、具体的な話は「特に今はありません」と述べられた。

 

 高校2年の長男悠仁さま(17)の進学先に関しては「本人が何をしたいかということが一番大事。そういうことができる場所に行ってくれたらいい」と期待された。

 

 この1年で印象に残った出来事の一つとして、パレスチナ自治区ガザでの戦闘を挙げられた。死亡者の4割以上が子供という報道に「非常に心が痛みました」と思いを寄せられた。

 

www.yomiuri.co.jp

 

 

 

記事や全文を読む限りでは方向性や文脈、分かりかねるのだが、なぜか親王任国というワードが頭をよぎったので、wikiの当該項目を貼付しておきます。宮号常陸宮の由来とも。

改修工事云々で比較すべき対象は、憲法/典範を遵守/墨守、それら範囲内にて摂政で済ませた場合ではないのか?と思っているんだが、その場合のシミュなりなんなりは、週刊誌、大手紙、地上波その他、どこでもいいんだが、数字なり数値なり、積み上げているんだろうか。

俺は当初から、憲法・典範に従い(=憲法違反を回避し)、摂政で収めるべきとの立場だったので。(当初から指摘していた人もいたらしいが) 多分に国家財政のためでもあった、ということになりますわな。逆に言えば、、、

 

親王任国

親王任国(しんのうにんごく)は、親王が国守に任じられた国及びその制度を指す。

 

天長3年9月6日(826年10月10日)、清原夏野の奏上に基づき制定された(『類聚三代格』:親王任国太政官符)。

 

概要


桓武天皇非常に多くの皇子・皇女を残し、続く平城天皇(へいぜいてんのう)及び嵯峨天皇多くの皇子・皇女に恵まれたが、このため天長3年当時、多数ある親王家を維持する財源と親王に充てるべき官職が不足していた

 

清原夏野はこうした課題に加えて、当時親王八省卿を兼務する慣例が成立していたことに問題[1]があることを指摘して、こうした問題を解決するため、親王任国の制度を奏上した[2]。

 

当初は淳和天皇の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、平安時代を通じて定着することとなった。

 

親王任国に充てられたのは、常陸国上総国上野国の3国である。いずれも大国だった[3]。

 

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類聚三代格「天長三年九月六日官符」によってこれら三カ国の長官は必ず親王が任命され、長官は守ではなく太守と称し、官位相当は正四位下と定められた[4]。

 

天長3年(826年)に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王常陸太守)、仲野親王(上総太守)、葛井親王(上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子であった。

 

親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の料物については無品親王(官職に就けない内親王含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。

 

承平天慶の乱において平将門が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「常陸介」「上総介」を任命している。叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国には特別な意味を見出していなかったからだと言われている。

 

時代が下り、後醍醐天皇建武の新政期には、一時期陸奥国親王任国とされ、義良親王陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。

 

 

名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の織田信長が「上総介」[5]を僭称し、江戸時代に入っても、将軍徳川家康子息の松平忠輝は「上総介」に任官し、また本多正純吉良義央小栗忠順が「上野介」に任官したのも、名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が時の最高指導者の子にしか許されなかった慣例を守っていたからである。

 

 

 

もう一つ、ついでに。

以前、皇位継承有資格者たる男性皇族ではなく女性皇族に限定して、その数の増減を追いかけたことがあったので、貼付しておきます。

 

 

1947(昭和22)年10月14日時点
GHQによる11宮家の臣籍降下以降
成年女性皇族:
(未成年女性皇族:4)
 

2016(平成28)年時点

成年女性皇族: 13

(未成年女性皇族:1)

 

その後、

2018年(平成30年)10月29日、皇籍離脱:1

2021年(令和03年)10月26日、皇籍離脱:1

2021年(令和03年)12月01日、成年:1

 

 

成年女性皇族数 / 未成年女性皇族数 

GHQによる11宮家の臣籍降下以降)

1947(昭和22)年
10月14日~ 5 / 4
11(良子皇后、貞明皇太后秩父宮妃、高松宮妃、三笠宮妃)
11/ (孝宮和子内親王、順宮厚子内親王、清宮貴子内親王三笠宮甯子内親王
1948(昭和23)年 5 / 4
1949(昭和24)年 6孝宮和子内親王成年) / 3
1950(昭和25)年 5孝宮和子内親王降嫁) / 3
1951(昭和26)年 5(貞明皇崩御順宮厚子内親王成年) 
11111111111111111111/ 3三笠宮容子内親王出生)
1952(昭和27)年 4順宮厚子内親王降嫁) / 3
1953(昭和28)年 4 / 3
1954(昭和29)年 4 / 3
1955(昭和30)年 4 / 3
1956(昭和31)年 4 / 3
1957(昭和32)年 4 / 3
1958(昭和33)年 4 / 3
1959(昭和34)年 6清宮貴子内親王成年、ショーダミチコもぐり込み) / 2
1960(昭和35)年 5清宮貴子内親王降嫁) / 2
1961(昭和36)年 5 / 2
1962(昭和37)年 5 / 2
1963(昭和38)年 5 / 2
1964(昭和39)年 7常陸宮家婚儀、三笠宮甯子内親王成年) / 1
1965(昭和40)年 7 / 1
1966(昭和41)年 6三笠宮甯子内親王降嫁) / 1
1967(昭和42)年 6 / 1
1968(昭和43)年 6 / 1
1969(昭和44)年 6 / 2紀宮清子内親王出生)
1970(昭和45)年 6 / 2
1971(昭和46)年 7三笠宮容子内親王成年) / 1
1972(昭和47)年 7 / 1
1973(昭和48)年 7 / 1
1974(昭和49)年 7 / 1
1975(昭和50)年 7 / 1
1976(昭和51)年 7 / 1
1977(昭和52)年 7 / 1
1978(昭和53)年 7 / 1
1979(昭和54)年 7 / 1
1980(昭和55)年 8三笠宮寬仁親王家婚儀) / 1
1981(昭和56)年 8 / 2三笠宮彬子女王出生) 
1982(昭和57)年 8 / 2 
1983(昭和58)年 7三笠宮容子内親王降嫁) / 3三笠宮瑶子女王出生) 
1984(昭和59)年 8高円宮家婚儀) / 3 
1985(昭和60)年 8 / 3 
1986(昭和61)年 8 / 4高円宮承子女王出生) 
1987(昭和62)年 8 / 4 
1988(昭和63)年 8 / 5高円宮典子女王出生) 
 
1989(昭和64/平成1)年 9紀宮清子内親王成年) / 4 
1990(平成2)年 10秋篠宮家婚儀) / 5高円宮絢子女王出生) 
1991(平成3)年 10 / 6秋篠宮眞子内親王出生) 
1992(平成4)年 10 / 6 
1993(平成5)年 11(ヲワダマサコもぐり込み) / 6 
1994(平成6)年 11 / 7秋篠宮佳子内親王出生)
1995(平成7)年 10秩父宮薨去) / 7
1996(平成8)年 10 / 7
1997(平成9)年 10 / 7
1998(平成10)年 10 / 7
1999(平成11)年 10 / 7
2000(平成12)年 9(良子皇太后崩御) / 7
2001(平成13)年 10彬子女王成年) / 7(ヲワダアイコ出生)
2002(平成14)年 10 / 7
2003(平成15)年 11瑶子女王成年) / 6
2004(平成16)年 10高松宮薨去) / 6
2005(平成17)年 9紀宮清子内親王降嫁) / 6
2006(平成18)年 10高円宮承子女王成年) / 5
2007(平成19)年 10 / 5
2008(平成20)年 11高円宮典子女王成年) / 4
2009(平成21)年 11 / 4
2010(平成22)年 12高円宮絢子女王成年) / 3
 
2011(平成23)年 13秋篠宮眞子内親王成年) / 2
2012(平成24)年 13 / 2
2013(平成25)年 13 / 2
2014(平成26)年 13秋篠宮佳子内親王成年、高円宮典子女王降嫁) / 1
2015(平成27)年 13 / 1
2016(平成28)年 13 / 1
 
細かな間違いは多々ありそうですが。

 

書き込みは2017年1月13日。

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