赤旗ネタですが。
支那中共からみれば、維新の党勢拡大よりも日本共産党あるいはその共闘の広がりの方が面白くないのかも。今頃環球時報だかで何か言ってるらしいが。
このご時世、支那中共とロスケが選挙介入していないはずがない。他国の選挙の動静をみるまでもなく。
その結果が、こちらも同じく支那中共に忖度する自民のシェシェ幹事長(尖閣ごっつぁん幹事長)であり、支那中共による統一戦線( 政治戦争を目的とする)指揮命令系統下の下請け外務大臣なんだろう。
(日中友好議員連盟の会長は 世襲林家。父はかつての日中友好会館会長。
wikiより。2019年に発表された米国防省情報局(DIA)の報告によると、中国共産党が「政治戦争」を目的とする統一戦線の組織で日本に拠点を置く、少なくとも7つの組織の中に、この日中友好議連連盟の名前があげられている。)
(交渉相手国の評と称して、優秀だのタフネゴシエーターだの、日本のあの地上波メディアを通して喧伝されるって、 六韜的に。。。本当に優秀だったら忘れた頃に。
国家も国民も領土(領海領空)も護る気はなさそうだけどな。定義にもよるがいわゆる新自由主義者。)
で、表題の件、
下記、投票率が+5、+10、あるいはそれ以上になったらどうなるんだろう?
第49回衆議院議員総選挙
小選挙区当選者
東京欠員1
自民 18→15
立民 4→8
公明 1→1
無所属 1→1
東京
自民 6→6
立民 6→4
維新 0→2
公明 2→2
共産 2→2
れいわ 0→1
無所属 1→0
新しい資本主義とやら、日本国内の中間層を搾取、ピンハネ、袖の下によって壊滅させ、支那中共にも武漢ウイルスにも敗北した新自由主義に代わりうる、支那中共への対抗策かと思っていたら、ただ単に支那中共の軍門に下りその属国化をすすめるだけの21世紀の新しい朝貢資本主義かもしれないのな。
新しい資本主義実現本部の有識者
Zホールディングス社長
塩野義製薬 副社長
Zホールディングス(チョンマサヨシのソフトバンク)
本社所在地 千代田区紀尾井町1-3
東京ガーデンテラス紀尾井町 紀尾井タワー
デジタル庁
千代田区紀尾井町1-3
東京ガーデンテラス紀尾井町 紀尾井タワー
旧李王家邸の赤プリ跡地なんだと。
日本一有名な知恵遅れの成年会見は出生の12月1日ではなく、なぜか12月5日にするそうで。以下、どこまでがどうなのか知らんが。
1918年12月5日 - 梨本宮方子(まさこ)女王と朝鮮李王世子・李垠との結婚が勅許される
塩野義がどんな会社なのか、以前の書き込みにリンクがあったので。
搾取なくば成長なし、ピンハネなくば成長なし、中抜きなくば成長なし、袖の下なくば成長なし。
ついでにもう1つ以前の書き込みを。
新しい資本主義とやらが、21世紀の新しい朝貢資本主義でなければいいのだが。
新しい資本主義実現本部の有識者やら何やら、それら人選をみれば乗っ取られてるとしか思えねーやな。
追記 第1回会合が伊藤博文暗殺の日。10月26日なんだと。
あの罰当たりな神道弾圧、皇統簒奪の国賊、大逆賊が、キム姓、スムニダ姓を名乗った日。
え~と、上記2018年9月の昔の書き込み関連、後鳥羽天皇のwikiを確認して、ちょっと首を傾げたので、あえて蛇の足を追記しておきま。
日本一の大魔縁となり皇を取って民となし、民を皇となす (保元物語)と書かれたのが崇徳天皇。
wikには後鳥羽天皇はこんな書き方をされてるようで。
「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との置文を記した。
以下、ネットの書き込みから転載。
しかし、当の後鳥羽院ご本人は、じつは生前から周囲の者に「崇徳院のように怨霊にはされたくない」と話していたという。
われ没後かならず思うところを行うべし、しかるごときの時、人定めて崇徳院のごとき沙汰を致すか、全く願うところにあらず、止め申すべきなり。
「怨霊にはならず、必ず成仏したい」という意思の表明(以下略)
別の書き込みから転載。
承久の乱に敗れた後鳥羽院は、崇徳院の事績も頭をよぎったのであろうか、もし自分がこの世の妄念に囚われて死後に第六天魔王となったならば、この世に障りをなすことがあるであろう、と死の一年半前に遺言を残したのである。
ただし、同じ置文のなかで「ただ我菩提をT(ママ)」うにとぶらわれんぞ、なに事にもすぎたる御いのりにてあるべき」「ただもうねんをすてて生死をいでんとこそ仏に申とも、せめての事にいいおく也」と述べるように、後鳥羽院の希望は、死後自分の菩提を弔ってもらうことで、第六天魔道に堕ちることから逃れて、極楽浄土に往生することにあった。
さらに続けて以下の長文。
このように後鳥羽院の怨霊が噂されるなかで、『後鳥羽院御霊託記』が編まれたように、鎌倉時代にはしばしば後鳥羽院の霊託事件が起きている。
『菓黄記』宝治二年(一二四八)七月三日条によれば、検非違使の中原章澄の妻で十六歳になる女性が、病悩に陥り、物怪に憑かれて、後鳥羽院を祀る神南を高陽院に建て、院の霊を鎮座するようにとの後鳥羽院の霊託を口走った。章澄の妹が大官院(後嵯峨天皇中宮)に仕えていた関係から、この霊託は大官院を経て後嵯峨院に伝えられ、議定があった。
これに続いて、翌建長元年(一二四九)三月、亀菊(隠岐配流に同行した愛妾、承久の乱の遠因とも)に後鳥羽院の霊が憑き、院の託宣があった。『岡屋関白記』建長三年三月二十七日粂によれば、後鳥羽院の霊託が院の「平生御愛の物(者)」 である伊賀局亀菊に下った。「自分は没後、思い通りに振る舞おうと決意した。ところが、人は定めて自分を崇徳院の如くに怨霊として扱おうとしている。これは自分の所願ではない、厳に申し止むべし」という霊託であった。
これは、朝廷が前年の中原章澄の妻に下った霊託にもとづいて、後鳥羽院の怨霊を慰める廟所を建立しようとしているのほ(ママ)、院の本意でほ(ママ)ないとしたものである。この霊託は藤原清房から西園寺実氏に伝えられ、朝廷では廟所の建立を取り止めることにした。