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しばらくかかりそ。サグラダファミリアより遅くなるかも。

自宅療養での死亡者遺族会が発足

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マラリアは悪い空気の意らしいので、ガダルカナル他のマラリア関連記事を上記に並べて貼り付けてみる。鵜呑みにしていいものか分かりかねるが。


次に、日本軍の病者への態度、すなわち医療体制に対する米軍の評価をみていこう。

終戦後に出されたIB(米陸軍軍事情報部が1942-46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌Intelligence Bulletin(『情報公報』))1946年3月号「日本の軍陣医学」は、日本軍の医療体制に対する総括的な評価を行っている。

米軍は「軍事作戦の圧力にともなう日本軍医療の崩壊は、南西太平洋における連合軍の飛び石作戦に対する、日本軍敗退の一因となった」と述べて医療の崩壊を日本軍敗退の一大要因と指摘、「衛生への配慮が勝敗を決めるうえでとくに重大であった作戦を、重要度の順に並べる」と「ココダ道、ガダルカナル、ブーゲンビル、西ニューブリテンアドミラルティ、ラエ─サラモア、ブナ─ゴナ、そしてニュージョージア─レンドバ」であったという。

医療が戦の勝敗を決めるとはどういうことか。例えば、「ガダルカナル作戦での勝敗の差は、日本兵マラリア脚気腸炎で弱って敗北が明らかになるまではわずかであったガダルカナルには4万2000人の日本軍がいたとされるが、その半分以上が病気や飢餓で死亡し、負傷者の80パーセント以上が不適切な治療、医療材料の不足、後送する意思と能力の欠如により死亡したとみられる」と説明されている。

IBが「もっとも医療的要素の影響を受けた」と指摘するココダ道作戦とは、日本軍が東部ニューギニアのゴナからココダ道を南下して要地ポートモレスビーを占領しようとした作戦で、1942年8月に開始され、各自が武器、弾薬、運べるだけの米を担ぎ、糧食の不足は現地調達で補うことになっていた。

作戦の開始当初3000人だった日本軍兵力は「多くの者が山登りの間に飢餓と脚気で死んだため、この困難な行軍を完遂した者は片手に満たなかった」。IBは「部隊全体で生き残った者は50人に満たなかったであろう。ほとんどの者は脚気や飢餓で、若干はマラリアで死に、戦闘で倒れた者は比較的わずかであった」と栄養・医療を無視した無謀極まる作戦の帰結を簡潔にまとめている。

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ガダルカナルの医療

IB1946年3月号「日本の軍陣医学」によると、1942年8月から翌年2月まで続いたガダルカナル作戦は「間違いなく医療の要素がもっとも顕著に働いた、例外的な大作戦」であった。同記事には、

いくつかの戦闘の得点差はわずかだったし、〔日本軍による〕飛行場の再奪回もかろうじて防げたし、敵の若干の地上総攻撃は成功しかけたし、失敗はわずかな違いで成功に転じ得たし、連合軍の絶対的な海上優勢にもかかわらず米軍は飛行場を失っていたかもしれない──敵軍が健康状態を良好に保てていれば。

と彼の有名な陸軍参謀・辻政信(ガダルカナル島作戦を終始強気で指導、戦後の1950年に回想記『ガダルカナル』を執筆)が読んだら喜びそうなことも書いてある。

しかし敗退しジャングルへ追われた日本軍に「防虫剤はなく蚊帳はわずかで、アクブリン、キニーネによる有効な薬剤治療体制もなかった」し、兵が「治療を受けるため戻るのは奨励されなかった」のに対し、

米軍は開豁地やヤシの森、稜線上の草原に陣取ったうえ「病人はジャングルからよく整備された野戦病院に送られ、休息と適切な治療を受け、状況が許せばすみやかに後送された」のだから、勝敗の行方はおのずと明らかであった

日本軍のマラリア被害については、「明らかに日本軍の全員が島への上陸後4~6週間以内にマラリアで苦しみ……非常に悪性だった結果、死亡率は例外的にすさまじいものとなり、作戦終了までに部隊全体の四分の一を超えたかもしれない」と見積もられた。

米軍のみたガダルカナル島(以下、ガ島と略)日本軍の野戦病院は地獄そのものであった(日本兵捕虜の証言か)。

日本軍はガダルカナルに円滑に機能する野戦病院を作ることができず、病人の扱いは敷物か地面上に寝かせ、ときにわずかなヤシの葉ぶきの小屋を与えるというものだった。野外診療室の衛生はひどいものだった。病人は特に夜間、壕内の便所へ行くのをいやがったため排泄物が敷物のすぐ近くに積み重ねられ、雨が降ると差し掛け屋根の壕のすぐ近くまで流れてきた。キニーネその他の薬の供給は激減し、病兵は食塩水不足のため代わりにココナツミルクを注射されたこともあった。食料は極度に不足していてヤシ、草、野生の芋、シダ、タケノコ、そしてワニやトカゲまでもが非常糧食として食べられた。

ここで米軍は何とも異様な日本兵観を披瀝している。「この状況で興味深いのは、戦線の向こうで苦しんでいた多くの日本兵が、米軍にマラリアを植え付け続ける人間宿主(human reservoir)となっていたことである」。彼らにとっての日本兵とは、死病の病原体を溜め込み、まき散らしてくる「宿主」に他ならなかった。

マラリア以外にも食糧不足による脚気腸炎が多発して日本軍に大損害をもたらした。「前線部隊に送る食料の盗みや荷抜きが多発したため、第一線の将兵は後方の兵よりもひどく苦しめられた」という。

負傷した将兵も「適切な治療施設がなく、常に包帯に雨が染みこみ、マラリア脚気腸炎のような悪疫が流行していたため、傷兵の死亡率は80パーセントを超えていたはずである。ガダルカナルから後送された傷兵の数は少なく、傷兵の大多数は死んだとみるのが妥当である」とされている。

IB「日本の軍陣医学」は、ガ島における日本軍の総戦死者数と死因を次のように見積もっている。

おそらく、ガダルカナルで死んだ日本兵のうち、三分の二は病気で死んだ。戦闘で死んだとみられる日本兵の数は1万を超えず、実数はもっと少ないはずである。ガダルカナルで我が軍と対峙した4万2000の日本軍のうち四分の一以下が戦死・戦傷死し、四分の一以下が撤退し、残りの半分以上──2万以上──は病気と飢餓で死んだ。対照的に米軍の死者・行方不明者は1500以下であった。

実際の犠牲者数は、ガ島の日本軍総兵力3万1400名中2万800名が「戦闘損耗」、その内訳は「純戦死」5000~6000名、「戦病に斃れた」者1万5000名前後、とされている。一方米軍の戦死は約1000名であった(防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦〈2〉ガダルカナル・ブナ作戦』1969年)。米軍側は日本軍の総兵力こそ過大視したものの、死因の割合についてはそれなりに正確に算定していた。

このように、ガ島の戦いは、「決定的であったか否かは別としても、医療の要素が米軍のはるかに犠牲の少ない勝利に貢献した」のであった。

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日本軍の医療観

IB「日本の軍陣医学」は日本軍の医療体制がかくも低レベルであった理由として、「その根深い欠陥、すなわち劣った個人教育、貧弱な設備、ばらばらの組織、西洋の基準に照らせば『ヒポクラテスの誓い』をとうてい満たせない患者への態度」を挙げている。

興味深いのは、それらが米軍が日本兵捕虜から医療体制の証言を引き出して分析した結果であること、この証言から我々がよく知らない当時の日本軍医療の実態や将兵の軍に対する感情がわずかなりともうかがえることである。

例えば、「すべての命令は兵科将校が発して伝達され、捕虜の言によれば医務上の要請に対する考慮はほとんど何も払われない。軍医将校に影響力はほとんどなく、その意見が採り上げられるのは困難である。日本の軍事指導者は、進歩的な手法や新技術を、支出が増えるため認めない」と日本軍軍医らしき捕虜が自国軍隊の視野狭窄ぶりに対する憤懣を並べた記述がある。

日本軍の短期決戦思想に基づく補給の軽視はよく指摘されるが、医療もまた当事者の言によれば「金がないから」という実に官僚的な理由で軽視されていたのであった

次の記述も軍医、もしくは十分な治療を受けられないまま捕虜となった傷病兵の証言だろうか。上から一方的に〝滅私〟と称して苦痛への我慢を要求する日本軍のやり方が、結果的に兵士たちの精神力・体力─軍の戦力ダウンとなって跳ね返っていたことがわかる。

厳格なる軍人精神のおかげで、ささいな訴えは軍医の注意を引かない。さらに、もしいたとすればだが、不平を言う兵は怠け者呼ばわりされて仲間はずれにされる。ささいな病気は兵士が自分で治療することを求められ、これが性病の報告上は低い発生数、結核の高い発症率の理由となっている。前者は軍の病気とは認められず、後者は発見されたときには病状がはるかに悪化している。

ここでIBの論評は狭い軍事の枠組みを越え、東西比較文化論的な色彩を帯びてくる。

「患者に対する日本軍の典型的な態度は西洋人には理解しがたいものがある。敵は明らかに個人をまったく尊重していない。患者は軍事作戦の妨げとしかみなされないし、治療を施せばやがて再起し戦えるという事実にもかかわらず、何の考慮も払われない」。

患者を役立たずと切り捨てる精神的態度が「日本人」なり「東洋人」特有のものとは思えないが、個人とその生命を安易に見捨てた過去の姿勢を現代の日本社会がどこまで脱却できているかは、常に自省されるべきだろう。

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薬剤不足と連合軍捕虜の解放

さらに日本兵捕虜は、日本軍病院への医薬品補給の内幕に関する証言も残している。

日本軍は治療材料を倹約する必要があった。捕虜の言によると、サルファ剤〔抗菌剤〕は生の裂傷には使われず、淋病の合併症や肺炎、その他の治療が効かない傷に限って用いられた。1943年3月以降、日本陸軍ではそれらの薬不足のため、使用は厳しく統制されることになった。捕虜は〝優良〟とみなされているバイエルの薬の量が減ったと述べている。アスピリンモルヒネ、コカインはほとんど使えず、キニーネは不足している。しかし最大の関心事は脱脂綿、繃帯の不足である

これらの証言が正確かどうかを日本側の史料で判定するのは困難だが、薬剤についても舶来のドイツ製品を有難く使っていたこと、海上輸送が途絶するなかで傷者の治療にもっとも必要なはずの繃帯すら品不足だったことなどは事実のように思える。これでは、ガ島以外の日本軍野戦病院でも同じかそれ以下の、地獄のような光景が広がっていたはずだ。

以下略

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